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試練のとき

赤福 浜田益嗣名誉顧問(80) (下)

自身が構想したおかげ横丁を背にする浜田益嗣さん=伊勢市で

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◆門前町再興し“味付け”

 「俺の考えがある。手伝ってくれんか」

 一九八〇年ごろ、ある会合の席だった。当時の三交不動産(津市)の社長、由良喜市(故人)に、赤福(伊勢市)の社長だった浜田益嗣(80)は熱弁を振るった。

 「考え」とは、伊勢神宮内宮(同市)の門前町の再興だった。

 江戸時代には「伊勢参り」や「おかげ参り」で年間数百万人が訪れたとの記録もある内宮。その前に広がる門前町は、旅人をもてなす御師(おんし)の館などでにぎわったという。ところが七〇年ごろには、商いを営む店は数えるほどになっていた。「サラリーマンの家ばかりで、赤福の本店前も人がほとんど来ない。寂しいもんでした」。益嗣は振り返る。

 神宮の参拝者が歩いて買い物を楽しむ場所を造ることが、益嗣のアイデアだった。一つの企業が街を仕立ててしまうという前例の無いプロジェクト。三交不動産と協力し、六十数軒あった民家の住人から土地を買っていった。住み慣れた家から引っ越すことに抵抗を示す家もあったが、十分な金額を提示し、理解してもらった。

 懸案となったのは大きな投資額だった。建造当初だけで百四十億円が見込まれ、赤福の年間売上高を上回る費用が必要だった。

 「この街が商売としてうまくいくかは、正直、自信がなかった」。益嗣は当時の思いを語る。一方、赤福は毎年、数十億円の利益を出していた。「貯金があるし、大きな借金も抱えなくて済む。失敗しても何とかなるだろう」。背中を押したのは家業の安定だった。

赤福餅=伊勢市で

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 買い進めた土地に古民家を移築し、新築もしながら街並みを整えていった。こだわったのは、日本を感じられる街にすることだ。戦後、生活様式がどんどん西洋化することに違和感を感じていた。「神宮の門前町は日本の風情がなければいけない」。九三年七月、おかげ横丁は完成の日を迎えた。

 二〇〇六年、益嗣は雑誌「伊勢人」のインタビューでこう話している。

 「赤福の味には『先味』と『中味』、『後味』の三つある。先味は舌に乗るまでの期待感。中味は舌からのどを通るまでの味そのもの。後味は、うまかったとかまずかったとか雰囲気の印象です」「おかげ横丁の雰囲気は、赤福の後味をつくる。良い印象が話題になれば、別の人の先味になる。だんだんスパイラルが大きくなって店が繁盛する」

 赤福餅をおいしいと感じさせる舞台装置として、おかげ横丁を考えていた。益嗣の演出は、当たったと言えるだろう。式年遷宮の前後だけ増えては、急減するという波を繰り返していた神宮の参拝者数は、近年、八百万〜九百万人の高水準を保っている。おかげ横丁には多くの人が足を運び、赤福本店の前は行列ができる。

 累計二百五十億円を費やしてきたおかげ横丁は、益嗣によると、まだ完成していない。さらに三つの店舗を開業するため、隣接する土地の買収交渉に入っている。鶏料理、中華料理、イタリアンの飲食店を出店する話があるという。さらに、外宮の前でも、おかげ横丁のような街づくりを、伊勢商工会議所などと構想している。

 一六年に伊勢志摩サミットの舞台の一つとなり、大きな脚光を浴びた伊勢は、これからどんな街を目指すべきか。益嗣に尋ねると、言い切った。

 「伊勢は、未来をどうこう言う土地じゃない。過去を、歴史を感じてもらう土地なんです。建物にしても、文化にしても、そういう点を意識していかないと」。おかげ横丁で体現した街づくりへの自負が、こもっていた。

 =敬称略

 (大島康介)

    ◇

 参考文献 「赤福のこと」浜田ます、1971年▽雑誌「伊勢人 154号」伊勢文化舎、2006年▽雑誌「伊勢人 遷宮記念号」同、2013年

 

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