トップ > 試練のとき > 記事一覧 > 記事

ここから本文

試練のとき

赤福 浜田益嗣名誉顧問(80) (中)

戦後の成長を振り返る浜田益嗣さん=伊勢市で

写真

◆時代を見据え家業拡大

 中国・順徳の野戦病院から届いた戦死の知らせに、一家の全員が茫然(ぼうぜん)としたという。

 一九三八(昭和十三)年二月、赤福(伊勢市)は九代目当主の浜田裕康を失った。陸軍に召集されてから半年、二十五歳の若さだった。残された長男の益嗣は生後九カ月。一七〇七(宝永四)年創業の老舗は、戦争に押しつぶされそうになっていた。

 「父の記憶はまったくない」と言う益嗣(80)を、十代目として育て上げたのは祖母ます(故人)であり、母ゆき(故人)だった。赤福餅の原材料である砂糖やもち米、小豆が自由に入手できない戦時統制の中、本店だけをほそぼそと営業していた。ますとゆきは、財産を切り売りしながら店を守った。

 「戦争というものは良いことが一つもない」と益嗣。米国との開戦後は、伊勢神宮内宮を守るため、本店も軍人の宿舎として使われるようになった。商売どころではなくなり、一九四四年には休業状態になった。戦争が終わり、再開に踏み出していったのは四九年のことだった。

故浜田ますさん

写真

 「おばあちゃんと母の二人は、本当によくやった。必死に家業を残してくれたんだから」。益嗣の脳裏には、経営者としてのますの振る舞いが残っている。

 自身は、誰よりも早い朝四時に本店に来て、釜に火を入れた。頼れる親族や経営者がいれば、会社に迎え入れて指揮を任せた。一方で、眼鏡にかなわない社員は容赦なく怒っていたという。生まれた時からずっと「お前は十代目の当主なんだ」と、ますとゆきから言われ続けた益嗣は、自然と経営者の目を養った。

 慶応大に学び、六〇年、二十二歳の春に入社。戦後の復興をへて、日本は経済成長期に入っていた。

 その頃、赤福にとって最大の課題は、赤福餅とよく似た餅菓子を売る業者との競争だった。赤福が休業していた間に県内各地に現れており、混乱を招く上に客も奪われていた。味に定評があった赤福餅の信用を高めるため、益嗣は販売先の店を訪ね歩いた。「食べ比べてみてください」。客を取り戻したい一心だった。やがて、他社のほとんどが類似商品から手を引き、客を取り戻すことができた。

 ♪ええじゃないか、ええじゃないか、えじゃないか−の歌で知られる「赤太郎」のテレビ広告は、一九六三年に益嗣の発案で始まったものだ。テレビという新しいメディアに広告を打ち、近鉄沿線の駅で販売するようになった。名古屋と大阪の百貨店にも売り場を持つことができた。

 興味深いデータがある。益嗣が入社した六〇年に販売した赤福餅は、九百八十万個だった。それから三十三年後の、第六十一回の伊勢神宮式年遷宮があった九三年には、十二倍の一億二千万個にまで成長している。「赤福餅の味が、日本人の好みに合っていたんでしょう」と益嗣は評価する。一方、この頃の拡大路線が、二〇〇七年に発覚する製造年月日の偽装問題の遠因にもなった。

 益嗣のエネルギーは、家業を発展させるだけにとどまらなかった。一九六五(昭和四十)年、米菓を手掛けるマスヤ食品(伊勢市)を立ち上げた。「家業ではなく、自分の企業をつくりたかった」。四年後にはヒット商品のおにぎりせんべいを発売し、軌道に乗せた。

 マスヤに社名を変え、今では、おかげ横丁を運営する「伊勢福」、志摩市の「志摩地中海村」と合わせた赤福グループを形成している。赤福、マスヤ、伊勢福、地中海村の合計売上高は年間二百五十億円ほどだ。

 家業の安定から派生した事業は、やはり家族によって継承されることを益嗣は望んでいる。「四人の男の孫がいるんです。それぞれの事業に関わってほしい」。父の死で途切れそうになった家業を再興した十代目は、「赤福が四百年、五百年と続く会社であってほしい」と願っている。=敬称略

(大島康介)

 赤福(あかふく) 江戸時代の1707(宝永4)年、初代の浜田治兵衛が伊勢神宮内宮前の宇治で創業。餅屋として浜田家が代々経営してきた。現在の典保さん(55)は11代目。まごころを持って商いに当たることを意味する「赤心慶福」を社是とし、「赤福餅」の商品名もこの言葉から取ったとされる。売上高120億円。従業員530人。

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索