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試練のとき

宮崎本店 宮崎由至社長(69) (上)

宮崎由至社長

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◆大吟醸を発売 活路開く

 県内有数の酒造会社「宮崎本店」(四日市市楠町)。一八四六年創業の老舗も、戦後は日本酒の等級制度に支えられた各地の銘酒に押され、苦戦を強いられた。最高級の大吟醸酒の発売で「地酒」の存在をアピールする独自の販売戦略を生み出したのが、六代目の宮崎由至(よしゆき)社長(69)だ。

 地域の運動会に持ち寄られた祝い酒。京都府や兵庫県の特級酒や一級酒がずらりと並び、地元の四日市産は一本もない。悔しさが募った。

 一九七〇年代後半。東京営業所から戻ったばかりの宮崎は、苦難に直面していた。創業家出身で、二十九歳で販売担当の専務となったが、自社の清酒「宮の雪」の売れ行きがさっぱりだったからだ。

 当時の日本酒は国の制度で特級酒や一級酒、二級酒に格付けされ、京都や兵庫といった酒の名産地の大手酒造会社の高級酒が幅を利かせていた。中小の宮崎本店の「宮の雪」は当時、二級酒で人気もいまひとつだった。

1981年に限定販売された日本酒「宮の雪」のラベル

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 現在のような、土地ごとの地酒を楽しむという文化はなく、産地名と酒の等級がものをいった時代。県内で独自の銘柄で販売する酒造会社は数えるほどで、経営を安定させるため、自社で造った酒を大手酒造会社に納め、相手方の銘柄で売るのが一般的だった。

 宮崎本店は自社銘柄を守るため、大手酒造会社とは取引しなかった。他の産地と差別化するため安い二級酒として売ったが、取引先からは「他の産地と比べて見劣りする」と値引きを求められた。

 「地酒として売れる酒にしたい。『田舎の酒』と卑下する立場から脱却しなくては」。熱い思いを抱いていた宮崎は、酒造会社の跡取りとしては異色の経歴だった。酒造りの知識を学ぶ理系の学問は性に合わず、大学は経済学部に進み、マーケティングなどを学んだ。

 足掛かりを模索していた八〇年ごろ、品評会用に米を極限まで磨いて造る特別な酒「大吟醸」の存在を知る。職人に頼んで、蔵でできたばかりの酒を飲ませてもらった。

 品評会用の白い杯から立ち上る、果物のような香り。べたつかないまろやかな味に衝撃を受けた。「本当に米で造った酒の味なのか。倒れそうなほどうまかった」

76年、東京営業所から四日市の本社に戻ったばかりの頃に社内行事で話す宮崎氏=四日市市で(同氏提供)

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 「これを売ろうよ」。その場で提案すると職人たちからは「これだから素人は困る」と鼻で笑われた。大吟醸酒は当時、品評会のためだけに造る酒。知名度を高めようと採算度外視で総力を挙げて造る試作品であり、市販しないのが常識だった。

 「品評会が終わったらこの酒はどうするの」。門外漢の素朴な疑問に、職人は「低級の酒に混ぜて製品にする」とこともなげに言う。「だったらそのまま瓶詰めして売ればいいじゃないか」

 八一年四月。社内から「大吟醸なんて売り物じゃない」と反対の声が上がったが、宮崎は「うまいから売れる」と押し切り、九百ミリリットル入りの大吟醸の「宮の雪」を千二百本限定で売り出した。通常の宮の雪が一升(一・八リットル)で千六百円ほどだったころに、半分の容量で千五百円。味にかけた。

 販売は県内限定。新聞に載った日は、注文が殺到して会社の電話がパンクするほどだった。それをきっかけに各種の品評会で宮の雪の評判は広まり、昨年五月の伊勢志摩サミットでは各国首脳の舌を楽しませた。酒造りの常識に挑んだ信念が、活路を開いた。

 (敬称略)

 (松崎晃子)

 <清酒の級別制度> 酒税法に基づき、1943(昭和18)年から92年まであった。品質によって特級、一級、二級の3等級に区分され、級によって1000リットル当たり57万600〜10万7900円の酒税が課された。酒造会社の申請を受け、各国税局に置かれた酒類審議会の審査を経て国税庁長官が認定。あえて低級にして販売する会社があるなど実態に合わなくなったため廃止し、酒税を一本化した。

 <みやざき・よしゆき> 1947年7月、旧楠町(現四日市市)生まれ。四日市高、慶応義塾大卒業後、72年に宮崎本店に入社。76年に専務、87年に社長。日本蒸留酒酒造組合の副理事長など要職も務める。

 

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