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試練のとき

岡三証券グループ 新芝宏之社長(59) (上)

インタビューに答える岡三証券グループの新芝宏之社長=東京都中央区で

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◆若さと大胆改革で勢い

 国内有数の証券会社「岡三証券グループ」(東京)は大正時代、津市で産声を上げた。個人商店から始まった会社は戦後、全国に支店網を広げ、業界での地位を不動にする。創業の歴史をひもときつつ、中興の祖の加藤精一会長(故人)が体験した試練の物語を、加藤会長の秘書を長く務めた新芝宏之社長(59)の証言を基に再現する。

 自転車にまたがった六人の店員が、一斉に店を飛び出していく。

 一九二三(大正十二)年四月。津市の中心部、京口町(現・中央)に誕生した「岡三商店」。創業者の加藤清治(一八九三〜一九六一年)は、この時まだ三十歳だった。

 現在の松阪市の農家の七男として生まれ、伊勢の加藤家の養子に入った清治。久居の陸軍歩兵第五一連隊で二年の兵役を終えると、国内は第一次世界大戦の軍需景気で株相場が沸き立っていた。

岡三証券グループの中興の祖の故・加藤精一会長

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 宮大工だった養父の跡を継ぐつもりだったが、株の面白さのとりこになった清治。長兄のつてを頼り、二十五歳で株を扱う津の個人商店に就職。営業のノウハウを身に付け、三十歳で独立し、「岡三商店」を立ち上げた。屋号の「岡三」には、出資してくれた恩人の岡副(おかぞえ)鯉三氏への感謝と、「三人の兄弟で協力する」という思いを込めた。

 「全員外交が必要だ」。木造の小さな個人商店で働く店員は六人。大手の他社に伍(ご)すために、顧客が店に来るのを待つのではなく、全員が自転車で飛び込みの営業をする独自のスタイルを編み出した。評判は次第に広がり、伊勢や尾鷲など県内各地に進出し、成長を加速させる。

 太平洋戦争後期の四四年に「岡三証券」として株式会社に。終戦一カ月前の津空襲で本店を焼失したが、翌年には営業を再開する。清治は戦後、大阪や東京、名古屋の三大証券取引所に相次いで参入し、勢力を広げた。

 幼少時代、自宅を兼ねた前身の岡三商店で、父・清治の背中を見ながら育った長男の精一(一九二九〜二〇一六年)。慶応義塾大を中退後、五四年に岡三証券に入社した。六一年に清治が急死すると、米国視察から帰国した当時専務の精一は、父の葬儀の日に開かれた臨時取締役会で社長に選ばれる。

1931(昭和6)年ごろの岡三商店=「岡三証券グループ90年のあゆみ」から

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 三十二歳の精一は早速、会社の本部機能を東京に集約するなど、矢継ぎ早の改革に取り組んだ。「会社自体も若く、ベンチャー企業のような勢いがあった」。現社長の新芝宏之は、昔日に思いをはせる。「若かったから、大胆なことができたんだ」。後年、会社のかじ取りを任された時の思いを新芝に語った精一。この三十五年余り後に、日本中に激震が走った金融危機と対峙(たいじ)することになる。(敬称略)

 (池内琢)

 <かとう・せいいち> 1929(昭和4)年1月、津市生まれ。津高校、慶応義塾大中退後、54年に岡三証券入社。父で創業者の清治氏の急逝で、32歳で社長に就き、97年に会長。98年から2年間、日本証券業協会長も務めた。岡三証券グループの会長職は加藤氏の死去に伴い、現在も空席となっている。

 <岡三証券グループ> 1923(大正12)年4月、創業者の加藤清治氏が津市で設立した「岡三商店」が前身。44年に岡三証券に社名を変更。65年に本店を東京・日本橋に移転。2008年に現社名に。グループの関連企業は国内外で10社。従業員は約3400人(昨年3月末現在)

 

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