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試練のとき

イオン名誉会長相談役 岡田卓也さん(91)−特別編−

◆合併と社会貢献 歴史に学び革新

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 全国で商業施設を運営する国内小売業界の最大手イオン(千葉市美浜区)。同社名誉会長相談役の岡田卓也さん(91)は、太平洋戦争で焦土となった四日市から前身の岡田屋を再興し、戦後日本の流通業界をけん引してきた。「絶えず革新を続けなければ生き残ることはできない」。一月から六回連載した「試練のとき」を振り返りつつ、九十一歳の今、胸に抱く経営哲学や業界の展望、故郷・三重県への思いを聞いた。

 −イオンは現在、グループ三百社を擁する巨大企業に成長しました。信条とする経営哲学を教えてください。

 まず挙げたいのは「企業の歴史は合併の歴史だ」ということです。これは故郷の四日市の歴史から学びました。四日市が本社だった三重紡績と、大阪紡績が合併して戦前、世界最大規模の紡績会社の東洋紡績(現・東洋紡)が生まれました。

 三井と住友という、かつての財閥同士の銀行が合併するなど、当時は予想もできない事態が起き、最近では三重県でも、亀山工場のあるシャープが台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業に買収されました。県が巨額の補助金を出して誘致したのに、わずか十数年でこの変化です。

 日本では戦前から商業、特に小売業の社会的な地位が低かった。銀行の融資でも他の業種と差があり、いまだにその意識は残っていると感じます。私の願いは小売業の社会的地位を高めること。前身の「ジャスコ」から、合併を重ねて会社の規模を拡大し、小売業の近代化を目指したのです。仲間と業界団体もつくって地位向上にも尽力してきました。

 −百貨店も含め、小売業界は厳しい競争にさらされ、日本は少子高齢化が深刻になっています。どう対応しますか。

 ダイエー(現在はイオンの完全子会社)は一九七〇年代、年間売上高で三越を抜いて小売業の国内首位になりました。総合スーパーが百貨店をしのいだ当時は戦後日本が最も成長した時代。「一億総中流」と呼ばれ、時流に合ったわけです。

 イオンの源流の岡田屋には「大黒柱に車をつけよ」という家訓があります。本来は不動である家の大黒柱をあえて動かせ、と。それは「立地の変化に応じて店を動かす」ということと同時に、絶えず革新をしなければ企業は永続しないということを意味しています。「大企業病」になると、革新力がなくなる。そうなってはいけない。

 国内の少子高齢化に対応するため、イオンも中国や東南アジアに進出しました。商業施設の運営のほかに、中国では植樹をしたり、カンボジアやベトナムで小学校を造ったりしています。私たち小売業は、お客さまと関わりながらこうした事業ができますし、現地の人に存在を知ってもらえます。

 −東海地方でもスーパー大手で「サークルKサンクス」を展開するユニーが、コンビニ大手のファミリーマートと経営統合するなど再編の波が続きます。ユニーの創業者とは同世代ですよね。

 ユニー(現ユニー・ファミリーマートホールディングス、東京)創業者の西川俊男君(一九二五〜二〇一五年)は同い年で、とても仲が良かった。イトーヨーカ堂を創業した伊藤雅俊さん(92)は一つ年上で、三人でよく食事をしたものです。家業の呉服商「西川屋」を継いだ西川君には、一九六九年にジャスコを設立した時、私は三遍、口説いたんだ。「一緒にやらないか」と。彼は「岡田屋とだけならば」と言ってくれたが結局ジャスコには参加せず、直後にユニーをつくったんです。

 −業界で生き残る術とは。

 イオンが今、うまくいっているかどうかは私には分かりません。ただ、ユニー発足時に抱いた違和感は、創業者の西川君が副社長だったこと。後に社長となり事業を拡大させたが、発足時に西川君が表に出ていなかったことは大きかったと思う。ダイエー創業者の中内功さん(一九二二〜二〇〇五年)は戦争中、フィリピンの激戦地を生き抜いた人で、戦後は全国で総合スーパーを拡大させました。だが、過剰な不動産投資が重荷になり、会社更生法を適用した再建ができなかったことも響いた。経営トップのあり方は分かれ目になると思います。

 −経営者は何を指針とすればいいですか。

 歴史に学ぶべきです。ドイツの宰相ビスマルクの言葉に「愚者は自己の経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ」という格言があります。今はアマゾンなどインターネット通販が盛んですね。でも、歴史をひもとけば、かつての全米最大の小売業「シアーズ・ローバック」は一八九〇年代に既に全米でカタログ販売を展開していました。

 米国は国土が広大ですから、店舗に来られない農家の人からカタログ販売は絶大な支持を集めました。現代ではそれがネットでの通販になったという訳です。ただ、お客さまはインターネットですべての商品を買うのではありません。店舗販売とのすみ分けは、これからも出てくると思いますね。

 小売業界では今、家具販売「ニトリ」や衣料品の「ユニクロ」、「しまむら」が耳目を集めています。例えば、ニトリはインドネシアやベトナムに工場を造り、製造コストを抑えました。ユニクロもいち早く中国で生産した。つまり、同業者と比べて「産地を変えた」のです。

 ニトリは売り方も変え、家具と生活雑貨を組み合わせて販売しました。それまでテーブルならテーブルと、まとめて売っていた他社とは違うことをした。だが、このやり方がいつまでも続くことはない、ということも歴史が教えている。その時代ごとにお客さまのニーズをとらえなくてはいけません。

 −イオンは国内外での植樹活動など社会貢献事業に力を入れています。企業の存続に必要ですか。

 企業が社会に貢献することは、当然のことです。昔、米国中西部の都市ミネアポリスを訪れて知った話です。社会貢献活動に熱心な地元の百貨店「デイトン・ハドソン」が買収されそうになった時、街の人が立ち上がって州法を変えてまで守ってくれました。日本でも昔の近江商人は「三方よし」の精神で慈善活動をしていました。

 ただもうけるだけでは企業は永続しないのです。岡田文化財団(菰野町)による津市の県立美術館への美術品の寄贈などもその一環です。ただ、私たちは当たり前のことをやっているだけです。企業でも個人でも社会的な貢献をしなければ尊敬されない。これも日本の産業史を振り返ればはっきりしています。

 −故郷の四日市や三重県は、どのような存在ですか。

 岡田屋は江戸時代、四日市で綿織物なども扱っていました。これまで長らく故郷の人々に支えられてきたことを、決して忘れてはいけません。東京に出てきてからも、三重出身の経済人たちと「三東会」という集まりをつくって交流していました。イオンの環境活動が始まったきっかけも、四日市で経験した公害でした。

 私は、あの戦争で学徒動員を経験した残り少ない一人。戦争中は統制経済で、生活物資はすべてが配給でした。岡田屋も四日市空襲で店は焼け落ちました。小売業は平和でなければ成り立ちません。私たちは、メーカーがつくった商品の先にあるお客さまを相手にしているのです。顧客第一主義を貫くために、イオンは絶えず革新を続ける企業集団でありたいと思っています。

 <イオン> 四日市市が地盤の岡田屋と、関西のフタギ、シロの三つのスーパーが前身で、1969年に3社で総合スーパー「ジャスコ」を設立。岡田卓也さん=25年、四日市市生まれ=は江戸期に創業した「岡田屋」の7代目で、ジャスコの初代社長に就任。2001年にラテン語で「永遠」を意味するイオンに社名を変更。グループの子会社はイオンモールや、スーパー「ダイエー」をはじめ、コンビニの「ミニストップ」、三重県を中心とする「マックスバリュ中部」など約300社。16年2月期の連結売上高は8兆1767億円。従業員は約52万人(16年2月末現在)。

◆インタビューを終えて

 岡田さんの気迫に満ちた表情が心に残っている。何より、時代を見通してきた、すごみのある目の力だ。

 四日市発祥で、日本を代表する企業に育て上げた経営者の「試練のとき」はいつだったのか。地元の新聞社の記者として聞いてみたい−。計三回、延べ六時間に及ぶインタビューを快諾してくれたことは驚きだった。

 明晰(めいせき)な記憶力で戦後の岡田屋の復興や、ジャスコが誕生した時の思い出を振り返った岡田さん。「私たちは三重県で育ててもらった企業ですから」。取材中、穏やかな光が岡田さんの両目に宿った時、揺るぎない故郷への思いを感じた。(池内琢)

 

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