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試練のとき

イオン名誉会長相談役 岡田卓也さん(91)−2−

◆「大黒柱に車をつけよ」

四日市の辻から本店を移転し、1949年12月に同市の諏訪新道で開店した岡田屋呉服店。手前中央が岡田卓也さん=四日市市で(イオン提供)

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 津の街は、朝から冷たい雨が降っていた。一九五七(昭和三十二)年二月某日。四日市の岡田屋呉服店の初めての支店が、産声を上げる記念すべき日だった。

 まだ薄暗い早朝。店の様子を見にきた三十一歳の社長、岡田卓也の表情はさえなかった。「城下町のお客さまは違うのか」。売り出しともなれば、開店前から客が列をなす四日市の本店とは違い、店の前にはまだ誰もいない。焦りが募った。

 四五年夏の終戦から半年後に店を再開した岡田屋は、街の復興とともに売り上げを伸ばしていた。その成長には、立地の変化に応じた出店戦略がある。

 戦前の四日市の中心地だった「辻」は戦後廃れ、近鉄諏訪駅(当時)から市役所に向かう「諏訪新道」に人の流れができた。辻に店を構えていた岡田はためらうことなく四九年、諏訪新道に店を移した。

 先祖伝来の土地を手放すことへの批判はあったが、構わなかった。その後、近鉄の四日市駅が現在の場所に移転することになり、諏訪新道から駅前へと五八年に再び店を移した。

 「大黒柱に車をつけよ」

 即断の背景には、岡田家の家訓がある。本来、家の要として不動の大黒柱に、車を付けて動かせ、との教えだ。「店の立地だけでなく、経営は時代の変化に対応しなくてはいけない」。岡田は、家訓の意味を説明する。初支店となる県都への進出は、成長への試金石だった。

1957年2月、津市に進出し初の支店を出した岡田屋

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 四日市でこそ有名だったが、津での岡田屋の知名度はゼロに等しい。四日市は綿花の貿易などで栄えた港町。一方、津は城下町で文化も違う。岡田は何度も津に通い、街を行く人の流れを観察した。開店日前には連日、新聞の折り込み広告を打って宣伝した。

 「これだけやれば、お客さんは押しかけるはず」。津市丸之内の中日会館(当時)の一階に出店した三百三十平方メートルほどの店。不測の事態に備え、ショーウインドーの前には丸太の防護柵まで組んだが、期待と裏腹に客足は鈍かった。午前九時開店の十分ほど前に、ようやく傘を差した客が一列に並んだ。

 開店後、突然、店内はごった返す。商品を取り合う人や陳列台に上がる人、店舗奥の事務所に押し寄せる客までいた。

 「良い品ならば支持される。城下町でも同じなんだ」。岡田はその時に感じた興奮を今も鮮明に思い出す。岡田屋は、伊勢市や愛知県岡崎市など県内外にも出店し、成長のスピードを加速させていった。(敬称略)

(池内琢)

 <岡田屋> 1758(宝暦8)年、今の四日市市で岡田惣左衛門が、呉服店「篠原屋」として創業。綿織物などの着物や帯留めなどの小間物を扱い、1887年に岡田屋と改称した。六世惣右衛門(惣一郎氏=卓也氏の父)が、26年に株式会社化し「岡田屋呉服店」を設立。四日市空襲で店舗を焼失したが、戦後再建。59年に商号を「岡田屋」に変更。衣料品店や総合スーパーとなり、「ジャスコ」(現イオン)の源流となった。

 

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