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試練のとき

イオン名誉会長相談役 岡田卓也さん(91)−1−

◆平和産業「焦土に開く」

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 全国で商業施設などを展開するイオン(千葉市)は、年間売上高八兆円を超す国内小売業界の最大手。そのルーツは、江戸時代に生まれた四日市の呉服店「岡田屋」にある。本紙のインタビューに応じたイオン創業者、岡田卓也名誉会長相談役(91)の証言を基に、戦後の試練や成長への軌跡を、六回の連載で紹介する。

 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年春。陸軍に召集された十九歳の早稲田大生、岡田卓也は、茨城県の鹿島灘で、ひたすら塹壕(ざんごう)を掘っていた。

 本土決戦となれば、上陸する米軍を迎え撃つのが任務だったが、まもなく敗戦を告げる玉音放送を聞いた。悲しくはなかった。

 「早く復学して、日本を再興しなくては」。四日市で江戸時代から続く「岡田屋呉服店」の跡取りで、家業が気掛かりだった。

 進駐軍に武器を引き渡すため、上官に残るよう引きとめられても断り、帰郷した九月。四日市の駅に降りた岡田は言葉を失う。終戦直前の四日市空襲で街は壊滅し、市役所などが形を残すほかは、見渡す限りの焼け野原。途方に暮れながらたどり着いたが、岡田屋の店も焼けて無くなっていた。

四日市空襲の被害を免れた土蔵の中から見つかった明治時代の「見競勘定帳」=千葉市美浜区のイオン歴史館で

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 唯一、土蔵が残っていた。木箱に保管された明治時代の帳簿を、岡田は初めて手に取った。「こんな昔に複式簿記を取り入れていたなんて」。墨書きした帳簿は「見競(みくらべ)勘定」と呼ぶもので、貸借対照表などの要素を取り入れた近代的な会計だった。

 岡田が二歳の時に急死した父惣一郎が、四日市商業学校(現・四日市商業高校)時代につづった日記もあった。行商の実習で行った東京で、明治の実業界の指導者で、現在の東京商工会議所の初代会頭などを務めた渋沢栄一と面会した時の感動を記していた。「自分も志を立てなければ」。胸を熱くした岡田は復学した早大で学びながら、翌四六年六月には社長に就任。戦時中、経営のかじを取った姉の千鶴子から託された。

 初仕事は、再建した木造の四十坪(百三十二平方メートル)の店で、翌月に開く大売り出しだった。戦後の混乱で物資が極度に不足する中、食品をはじめ、下着、げた、鍋、フライパンなど、あるだけの生活雑貨をかき集めた。

 「焦土に開く」。売り出しを知らせるチラシのコピーは、岡田が考えた。「難解だと思ったが四日市は文字通り、焦土だったから」。学生らしい真っすぐな気持ちを込めた。

 七月二日の売り出し初日。待ちわびた客が、開店前から長蛇の列をつくり、店はごった返した。その時、チラシを手にした女性が、感激の涙を流しながら岡田に話し掛けてきた。

終戦翌年の1946年、岡田屋の大売り出しを知らせる新聞の折り込みチラシ=千葉市美浜区のイオン歴史館で

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 「やっと平和が来ましたね」

 戦時中は国家による統制経済で、食品などすべてが配給。自由に日用品が買えることは、庶民にとって戦争が終わった何よりの証明だった。

 岡田はその時の感動を今も胸に刻む。「商店が開くことで、初めてお客さんは平和を実感された。小売業こそ平和産業なんだ」(敬称略)

(池内琢)

 <おかだ・たくや> 1925(大正14)年、四日市市生まれ。富田中学(現・四日市高校)を経て48年、早稲田大商学部卒業。在学中の46年、岡田屋呉服店社長に就任。1758年に綿織物や帯留めなどを扱う太物・小間物商として創業した「岡田屋」の7代目。ジャスコ(現・イオン)社長、会長などを歴任。イオンの創業者。

 

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