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試練のとき

三重県民共済 米山利夫理事長(64)(下)  

◆加入低迷 退路断ち開拓

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 埼玉から始まった県民共済事業を全国に展開するため、米山利夫は創始者の正木萬平(故人)とともに奔走した。二〇一一年、自身も設立支援に関わった三重県民共済生活協同組合に赴任することになる。

 一九八九年秋、県民共済の全国組織「全国生活協同組合連合会」にプロジェクトチームが発足した。「よい保障を安く」という正木の志を全国へ広める路線を敷いたが、思うように普及しない現状にてこ入れするためだ。

 三十七歳の米山もメンバーに。戸別配布されたパンフレットで加入を検討する人に、制度を説明する「普及員」のノウハウを埼玉県民共済で確立させた腕を買われた。米山は各地の県民共済を飛び回り、運営手法をたたき込んでいった。

 九八年春、県民共済が九年ぶりに三重、奈良、岡山の三県で新設された。「三重に発起人、役員として入り、立ち上げからやってほしい」。全国生協連が米山に打診した。

 県民共済は地域に根付いた運営をするため、地元の人間で組織をつくってきた。出向の形を取ろうとした全国生協連に米山は反発。「経営ってものはそんな中途半端じゃ務まらない。やるなら生協連を辞め、退路を断つ」。その激しい言葉に、話は白紙に戻った。

勉強会で普及員に語りかける米山理事長(右)=津市羽所町の三重県民共済で

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 三重県民共済の新規加入数は、設立当初から伸び悩んだ。年度平均は全国二十五位前後のまま。二〇〇六年には二十九位に落ちた。

 一一年、米山に再び打診が来る。全国生協連で要職を歴任していた米山に事業熱が再燃。「やるからには三重を必ず上位にする。ひと泡吹かせてやろう」。一一年四月、三重県民共済に赴任した。

 普及員五十人の大半が、成約件数は十件未満。掛け金の安さが必ずしも加入の決め手にはならなくなった現状を打破するため、米山は次の手を打つ。

 目を付けたのは、加入者への聞き取りでつかんでいた、口コミや紹介の影響力。普及員にその役を担ってもらおうと考えた。ただし現状を否定せず、現場の気持ちをつかんで士気を上げることに注意を払った。

 まず、戸別訪問の現場を訪ねて全普及員と話し、一人一人の性格や家庭環境を把握。定期的に電話などで接触を続け、直接対話できる環境をつくった。報償金や表彰制度も設け、月一回普及員が集まる場で成功例を発表させるなどして、刺激を与え続けた。「気持ち良く働いてもらえれば、自分が扱っているものが良いものだと思える。そうすれば自然と勧めたくなる」。普及員も八十人に増やした。

 一年後、月平均で千七百件以上の新規加入を確保。就任二年目にして全国トップ10入りさせた。上位で安定した現在は、「支え合う」という共済の精神に通じる社会貢献事業にも力を入れる。

 現在の三重の総加入数は約二十九万件。目標は、県民の半数に当たる九十万件。「埼玉でできてるんだから、三重でできないわけがない」。挑戦はまだ続く。(敬称略)

(松崎晃子)

 

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