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試練のとき

三重県民共済 米山利夫理事長(64)(上)

◆夢追い保険業界に風穴

 割安な掛け金を武器に、三十九の都道府県で生命、火災共済の保険事業を展開する県民共済。その原型となった埼玉県民共済の草創期のメンバーで、全国展開に奔走した三重県民共済生活協同組合(三重県民共済)の米山利夫理事長(64)に、その歩みを聞いた。

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 第一次オイルショックで高度経済成長が止まり、日本中が物価高にあえいでいた一九七〇年代後半。埼玉県民共済は、異色の生命保険として世間の耳目を集めていた。

 設立のきっかけは、一人の労働者の死だった。掛け金が高くて大手の生命保険に加入できず、遺族の生活は困窮した。組合員である労働者の生活を守ろうと、金属業界の労働組合役員だった故・正木萬平が旗振り役となり、埼玉県民共済は七三年五月に創設された。掛け金は「生保大手の六分の一」と報道されるほど割安。年齢や性別に関係なく、掛け金は一律という、これまでにない独自の仕組みで、既存の保険に挑んでいた。

 関東地方の銀行員をしていた二十四歳の米山の目にも、県民共済は風変わりに映った。「あんな安い掛け金でできるものなのか」。すぐにつぶれるとうわさされていたが、創設三年目を迎え、加入者が増えているとの話は耳に入ってきた。

 雇われの銀行員としての自分の将来に疑問を感じていたころ。独自の路線で大手に挑む埼玉県民共済に自身の将来を重ね、転身を決意する。

 ある土曜日。米山は意を決して共済の事務所に電話し、その日の午後に正木との面接の約束を取り付けた。出向いた事務所は古びた雑居ビルの一角にあり、職員は非常勤を含めても十人足らず。営業は正木が一人で担うような小所帯だった。

 正木に会った米山は「雇ってほしい」と単刀直入に切り出した。「なぜ安定した銀行員を辞めるんだ」と不審がる正木。米山は「自分は事業をやりたい。ここには夢がある。自分の金融の知識も役に立つはず」と熱っぽく畳み掛けた。

 米山の訴えを黙って聞いていた正木は「じゃあ、明日からでも来なさい」と、短く告げた。七七年四月、米山は埼玉県民共済の職員になった。

1987年、正木氏(左)と米国の先進的な保険事情を視察する米山理事長(左から2人目)=米国ワシントンDCで(三重県民共済提供)

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 メンバーになって、安く設定できる県民共済の掛け金の秘密に気付いた。保険は、外交員が個人宅などを回って契約を取る手法が定番だった。県民共済は、保険外交員の代わりに、パンフレットを戸別配布するという当時としては画期的な手法を取った。人件費を抑えることで、掛け金を安くできたのだ。異例の取り組みに、配布する職員自身も半信半疑だったが、米山は「ポストに入った郵便物は必ず手に取るから、パンフレットも目にする。効果は確実だ」と確信した。

 米山は非常勤の職員三人と手作りのパンフレットを各家庭に配る毎日。業界内の反発に遭い、嫌がらせを受けたこともあったが、着実に加入者を増やしていった。八一年五月、埼玉県民共済が主体となり、県民共済の全国組織が発足。「いい保険を少しでも安く、多くの人に広めたい。時代を変えよう」。師と仰ぐ正木とともに、理想に突き進んだ。(敬称略)

(松崎晃子)

 <よねやま・としお> 1952年、埼玉県加須市生まれ。77年、創業4年の埼玉県民共済に入職。パンフレットを各戸に配布して自発的な加入を募る方式の原型を推し進めた。同県民共済加入促進副部長、全国生活協同組合連合会の各部長などを経て、三重県民共済には2011年に専務理事として赴任、13年から理事長。

 <共済> 組合員が一定の掛け金を供出して協同の財産を準備し、死亡や災害などの不測の事態が起こった場合に「共済金」を支払う、組合員同士が助け合う仕組みの非営利の保障制度。ただし組合には、居住地や職業など、特定の条件を満たす人しか加入できない。一般の保険とは違い、割安な掛け金で最低限の保障内容に設定されている。例えば三重県民共済では、一般的な総合型の生命共済の場合、月の掛け金1000円で、交通事故死の補償金が500万円、病死で200万円。ほかには全国労働者共済生活協同組合連合会(全労済)やJA共済などがある。

 

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