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試練のとき

井村屋グループ 浅田剛夫会長(74)(下)

◆都心に支店 成功へ転機

経営の努力について語る井村屋グループの浅田剛夫会長=津市高茶屋で

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 大阪の老舗会社「イカリソース」から転身し、大阪万博が開かれた一九七〇年、井村屋製菓(現・井村屋グループ)に移籍した浅田剛夫。高級アイス事業の次に取り組んだのは、創業者・井村二郎(一九一四〜二〇一一年)の発案で始まった外食事業だった。

 東京の一等地に生まれたおしゃれなレストランに、マスコミの取材が殺到した。

 アメリカンスタイルのパイ料理が人気の米国チェーン、アンナミラーズと提携した井村屋製菓。浅田も渡米して修業し、一九七三年、東京・青山に一号店が開店した。

 パイ料理に加え、女性店員のミニスカートの制服が人気を集め、一世を風靡(ふうび)したアンナミラーズ。原宿や赤坂、自由が丘など、若者が好む都内の街を中心に、最盛期には首都圏で約二十店を展開した。

 「アンミラ」の事業の中核にいた浅田は一九八七年、四十四歳で東京支店長への異動を命じられる。営業担当の役員から「東京がこのままでは駄目だ。井村屋を変えてくれ」と送り込まれた。

米国のアンナミラーズの店舗で研修中の浅田会長(右)=1972年ごろ(井村屋グループ提供)

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 井村屋の東京支店は当時、下町の北千住にあり、二十人ほどの小所帯。国内の商談の中心に居ながら、大阪と名古屋の両支店の後塵(こうじん)を拝していた。

 津市の本社から食品を積んだトラックが東京支店に着くと、スタッフ総出で荷を解き、手配した車で営業担当が駆け回る毎日。倉庫と駐車場こそあれ、浅田には物流と営業の機能が同居した支店は非効率なものに映った。

 赴任後の支店会議で浅田は宣言する。「支店を移転する」。予想外の提案に、部下たちは浮足立った。「本当に都心に移れるのか」。当時、東京支店にいた二十三歳の岩本康=経営戦略部長=はその時、淡い期待を抱いたのを覚えている。

 この年、日経平均株価は二万円を超え、国内は活況に沸き、バブル景気のピークに近づいていた。比例するように、都心の土地代は高騰。浅田が目指した千代田区への移転には膨大な費用がかかり、倉庫や駐車場を造れば費用はさらに膨らむ。社内には反対の声も上がった。しかし、浅田の決意は固かった。「支店を移すことこそ、変革の象徴だ」。若者が好む都会にアンナミラーズを出店し、成功した経験から確信していた。

 追い風になったのは、物流業界の変化だ。このころ、複数の食品メーカーの商品をまとめて問屋に運送するサービスが始まり、津市の本社から東京支店を経由せず、直接荷物を取引先に届けられるようになった。維持費がかさむ倉庫は支店に不要となり、都内の営業は電車とレンタカーを使うことで、駐車場問題も解決した。

 「支店が都心に移り、社員の士気が高まった」と実感した。東京支店はその後、関東支店となり、百人超の従業員を擁するグループ最大の拠点となった。浅田は言う。「変わらなければ、生き残れない」(敬称略)

(池内琢)

 <井村屋グループ> 戦前、父親の和菓子店を手伝っていた創業者の故井村二郎氏が1947年、前身の井村屋を設立。ようかん製造を足掛かりに、国民的なアイス「あずきバー」や、肉まんなどがロングセラー商品に。津市高茶屋に本社を置き、2015年度のグループ売上高は過去最高の386億円。従業員は961人(16年4月現在)。

 

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