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試練のとき

井村屋グループ 浅田剛夫会長(74)(上)

◆上司の助言 転身後押し

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 厳しい競争にさらされる企業活動の中で、経営者は難題と格闘しながら飛躍への活路を開いてきた。三重を代表する企業トップの「試練のとき」はいつ、どのようなものだったのか。証言をもとに、隔週の連載で再現していく。初回は、「あずきバー」で知られる津市の食品メーカー、井村屋グループの浅田剛夫会長(74)に聞いた。

 日本中が熱狂した東京五輪(一九六四年)が終わり、一時的な不況に見舞われた翌年。就職戦線を勝ち抜き、老舗の食品会社「イカリソース」(大阪)に就職した二十三歳の浅田剛夫は仕事に手応えを感じていた。

 志望の食品業界に入り、流通担当の営業職としてノウハウを身に付けた。「将来は広告や販売促進も手掛けたい」。妻とも社内で出会い、あこがれの都会で充実した日々を送っていた。

 高度経済成長を続け、東名高速道路が全線開通した六九年。浅田が暮らす郊外の団地に、三重大付属中学校(津市)の同級生で、後に井村屋製菓(現・井村屋グループ)の社長を務める井村正勝=同市大谷町=がふらりと訪ねてきた。

 「営業スタッフが足りないから、うちに来てくれないか」。昔話に花が咲く中、浅田はそんな相談を受けたことを覚えている。井村は父の二郎(一九一四〜二〇一一年)が、終戦後に軍隊仲間と設立した井村屋製菓に入社し、大阪支店に配属されたばかり。

 井村屋は翌年の大阪万博を好機ととらえ、米国の会社と提携し、まだ国内に根付いていなかった海外の高級アイスを売り込もうとしていた。何度も自宅を訪れた井村は「うちは同族企業じゃない。一緒に働いてほしい」と親友を口説き続けた。

大阪万博を契機に、高級アイス事業を始めたころの浅田会長(右)=1970年、大阪万博の会場で(井村屋グループ提供)

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 大手のイカリソースで、仕事にやりがいを感じていた浅田は思い悩む。当時の井村屋は「中学の同級生の会社」であり、学生時代の就職活動で受験する対象ではなかった。「郷里の会社に行くことには戸惑いがあった」

 だが、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博は飛躍の舞台に映った。国内外から計六千四百万人超が訪れることになる空前の催しに、時代の変化を感じた浅田。信頼する上司に思い切って打ち明けた。

 「大阪万博は絶好のチャンス。頑張りなさい」。八歳ほど年上の課長が、あっさりと背中を押した。驚きだった。一つの会社で勤め上げるのが美徳とされたそのころ、転職は今ほど一般的ではなかったからだ。

 その時に受けた助言を今も胸に刻む。創業家の友人に移籍を誘われたことを念頭に、上司は言った。「人の三倍働きなさい。それで、ようやく普通だと思われる」。有能な営業職だった上司は創業家の縁故で入社していた。社内で冷ややかに見る人もおり、苦労も身に染みていた。

 「万博で展望が開けるなら、井村屋で挑戦してみたい」。上司の助言で腹を決めた二十七歳の浅田には、訪れる試練こそ好機に思えた。だが、井村屋に移籍後、高級アイス事業は軌道に乗らなかった。ハーゲンダッツなど、大人も好む高級志向の海外のアイスが普及したのは八〇年代で、時期尚早だった。

 井村屋は、海外志向から路線を転換。大阪万博の三年後の七三年、ぜんざいをモチーフにしたアイス「あずきバー」を発売。和のテイストが支持され、国民的なロングセラーに育った。(敬称略)

(池内琢)

 <あさだ・たけお> 1942年7月、津市生まれ。津高校、中央大経済学部を卒業後、イカリソースを経て70年に井村屋製菓に入社。取締役営業本部長、常務、専務などを経て2003年に社長。10年、持ち株会社に移行した井村屋グループの社長。13年から現職。

 

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