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長寿しなの 彩食記

<第6部 戦争とのつながり> (5)ソーセージ

ロースハムの薫製具合を確認する小松さん=同町の軽井沢デリカテッセンで

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 長さ四十、五十センチのナラやサクラの薪にマッチで火をつけて燃やす。立ち上った煙でソーセージやハムを薫製する。この薫煙庫のある工場は熱気が立ち込め、しばらくいると額に汗がにじむ。

 軽井沢町軽井沢のソーセージ製造「軽井沢デリカテッセン」。電気の薫煙庫や薫製チップを使わず、薪を燃やす昔ながらの製法にこだわる。社長の小松賢二さん(54)は「暑いし煙いけど、香りが違う。この製法はドイツ人捕虜から学び、今も変わらない」と語る。

 この店を開業した小松さんの父太さん(84)は、ドイツ人の故ヘルマン・ウォルシュケさんにソーセージ造りを学んだ。本場ドイツで食肉加工の修業をしていたヘルマンさんは第一次世界大戦の時に中国・青島で捕虜となり、日本に移送された。

 解放後も日本に残り、明治屋に雇われた後に独立。一九四八年には東京都狛江市(旧狛江村)に工場を建設した。太さんは故郷の山形県から集団就職で上京し、この工場で働いた。見よう見まねでハムやソーセージ造りを学び、ヘルマンさんが五〇年に「レストラン デリカテッセン」を軽井沢に出すと、レストランも手伝った。

 太さんはヘルマンさんを「先生」と呼び「厳しかったが尊敬していた」と慕った。

 ヘルマンさんが六三年に亡くなった後、太さんは家族で軽井沢に引っ越しし、洋食レストランで働いた。八〇年に独立し、「軽井沢デリカテッセン」を開いた。太さんの妻キヨ子さん(79)は「『自分がやらないとヘルマンさんの味がなくなってしまう』との思いだったのでは」と太さんの心境を思いやる。

ヘルマンさん(前列中央)と小松太さん(前列右)ら=1954年7月、軽井沢町にあったレストランデリカテッセンで(小松賢二さん提供)

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 キヨ子さんは、ヘルマンさんを「背が高くて優しい感じ」と振り返る。太さんらと一緒に狛江市にあるヘルマンさんの墓参りを二十年間ほど続けた。墓に手を合わせる際は「ヘルマンさんがいたから夫は店を出せた」と感謝の気持ちを込めた。

 小松さんは二〇〇〇年、店を継いだ。冷えたミンチ状の肉を手でこねて混ぜたり、重いハンドルを回して腸に詰めたり。ソーセージ造りは小学生時代から嫌々やった手伝いから始まり、全て父から学んだ。「ヘルマンさんや父から受け継いだ味を守りつつ、新しさも加えていきたい」と語り、薫煙の香りが立ちこめる工場で汗を拭った。

 (中島咲樹)

 =第6部終わり

◆甲子園で国内初ホットドッグ

 <ヘルマン・ウォルシュケ> 1893年、現在のドイツ生まれ。第1次世界大戦が勃発すると21歳で海軍軍人として出征し、その後、旧日本軍の捕虜となって大阪や広島の収容所で過ごした。解放後も日本に残り、ハムやソーセージ造りを日本に伝えた。関東大震災に遭って関西に移り住むと、1934年、ベーブ・ルースが来日した際に甲子園球場でホットドッグを国内で初めて売った。次男が80年に神奈川県で設立した会社は2008年に日本ハム子会社と合併し、ヘルマン工房(静岡県)としてその名を残す。このヘルマン工房のソーセージを使って同年に国内初のホットドッグが復刻され、今年も甲子園球場で春と夏の高校野球の期間中に販売された。

 

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