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長寿しなの 彩食記

<第3部 そばの源流> (4)保科家と更科

33年前に再興した店にのれんを出す堀井さん=東京都港区で

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◆江戸好みの白 全国へ

 ゆで上がったそばは輝くように白く、透き通って見える。その麺に季節の素材を練り込めば「かわりそば」ができる。四月中ごろはサンショウの若芽を混ぜた「木の芽切」。口に入れると、春の香りがフワッと広がった。

 東京都港区・麻布地区。江戸時代からにぎやかだった下町と、各国の大使館が集まる高級住宅街の高台が一緒になった表情豊かな町だ。その下町側、麻布十番商店街の奥にある老舗そば店「総本家 更科堀井」は、そば通らが行列をつくる。

 かわりそばは風情があるが、店の一番の名物は真っ白なそば「さらしな」。社長で店の九代目の堀井良教さん(55)は「徹底的に白さを追求した。これが更科そばです」と胸を張った。

 更科堀井の前身は、一七八九(寛政元)年創業の「信州更科蕎麦処(そばどころ) 布屋太兵衛」。先祖が信州の更級郡出身だった太兵衛は、麻布で布屋を営んだが、そば打ちの名手でもあった。ある時、出入り先の大名屋敷の殿さまに腕を見込まれ、そば屋になるよう勧められた。

 殿さまの後押しで、そばを大名屋敷や将軍家に納め、江戸の三名店の一つになった。いま全国で更科を冠する店の多くは、太兵衛の店の繁盛にあやかったとされる。

 きっかけをつくったその殿さまは、上総(現千葉県)の飯野藩七代藩主、保科正率(まさのり)(一七五二〜一八一五年)。信州の高遠藩主保科正之のおじが、幕府旗本から出世し大名になった家系だ。更科の名は、更級郡の「更」に保科の「科」。信州、東北でそばを広めた保科家は、ここでも名品の誕生に関わっていた。

 更科そばは、高遠や会津に伝わった素朴で濃厚な味わいとは、ずいぶん違う繊細さだ。堀井さんは「江戸にそば屋が三千七百軒もあった。生き残るには、将軍家や町民の好みに合わせ、さらに改良が必要だった」とみる。

 将軍家には、高遠藩や高島藩からソバの実が献上された記録がある。庶民だけでなく位が高い武家もそばを好んだ。真っ白で香りも上品な更科そばは、奥方たちに人気だったらしい。ゆでたそばを屋敷に運ぶ際、くっつかずサラサラほぐれるのも良かったようだ。

真っ白な麺が特色の「更科堀井」のそば=東京都港区で

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 太兵衛から続いた店は太平洋戦争開戦が迫る一九四一年、経営難などで廃業に。商店街有志らがつくった会社が後継店を営むといった経緯の後、八四年、大学を出た堀井さんと、父で八代目の良造さん(80)が自分たちの店を再興。二〇一三年の安倍首相のロシア訪問、一五年のイタリア・ミラノ万博に日本のそば店を代表して参加するなど活躍している。

 「常に工夫をして、自分たちの味を追究するのが、わが家のDNA」と堀井さん。江戸、東京で二百三十年。長い歴史を背負う店内で、一つ教えてくれた。「やっぱりそばは信州で生まれた味覚。うちのそばも、信州産のきのこや山菜がよく合うんだなあ」(今井智文)

 <江戸のそばと更科> 江戸では寛文4(1664)年にそば屋の始まりとされる「けんどんそば切り」が吉原遊郭で商売を始め、世間に広まったとされる。深夜まで屋台で売る「夜そば売り」が庶民の夜食に広まり、1750年ごろには店も増加。「戸隠そば」「寝覚そば」など信州の地名を入れて味の良さをアピールする店も多く、更科(更級)もその一つにあたる。更科そばに使われる「更科粉」は、実の皮を取り除いて軽く臼にかけ、実の芯の白く柔らかい部分を粉にしたもの。更科を冠する店は、麻布地区に「更科堀井」を含め3店ある。

 

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