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鉄道まるっと切り抜き帳

<御嵩口駅>(番外) 中央線から外れたため私鉄敷設

開業当時の御嵩駅(現在の御嵩口駅)を発車する東濃鉄道の試運転列車=名古屋鉄道提供

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かつて駅舎があった駅前広場で往時を懐かしむ田中さん=名鉄御嵩口駅で

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 開業100周年の節目に、多治見から美濃太田まで、太多線の8駅を順にたどってきた連載。結びに番外編として、太多線の前身、旧「東濃鉄道」が全通した際の終着駅だった名鉄広見線の御嵩口駅(当時の御嵩駅)を訪ね、創業の足跡をたどった。

 旧中山道の宿場町で、当時の東濃地方の中心地だった御嵩町は、中央線のルートから外れたため私鉄の敷設に動いた。実業家を中心に旧「東濃鉄道」を設立。多治見駅北側の「新多治見駅」から順に建設し、1920年には広見(現・可児)を経由して御嵩駅までの全線が完成した。国が太多線の建設を始めた後も、広見〜御嵩間は私鉄「東美(とうみ)鉄道」として残り、43年に名鉄に合併された。

 戦中や終戦直後には町内の鉱山で産出される亜炭を貨物列車で各地に運んだ。「のんびりした駅だったけど、朝夕は炭鉱労働者で満員でね。みんな通勤の時はさっぱりした背広を着ていました」。駅前に住む田中昭一さん(87)は、伏見口(現・明智)駅に近い可児農業高校(現・東濃実業高)に通学していた当時を懐かしむ。

 構内に残る古いホーム跡には、当時は出荷を待つ黒い亜炭が山積みにされていた。広い駅前には駅舎が建ち、東側には東美鉄道の社屋が2棟あったという。

 だが、経営は厳しい時期が続いた。昭和40年代には、御嵩にも観光特急として花形車両の「パノラマカー」が乗り入れたが、自動車の普及で乗客は減少。今は、可児市と御嵩町の補助金で何とか存続している。

 鉄路を敷いたのはどんな人物だったのか。東濃鉄道初代社長の平井信四郎(のぶしろう)(1875〜1941年)は、可児川の水力発電事業で財を成し、鬼岩温泉を再興、県議を経て衆院議員まで務めた。鉄道の建設時はオートバイで沿線を巡って地権者と交渉し、死の直前まで鉄道の経営環境を案じていたと伝記に書かれている。

 御嵩町中切にある築120年の造り酒屋「平井酒造場」で、ひ孫で取締役の平井信吉さん(54)を訪ねると、信四郎が残した書を見せてくれた。日付は1932年、丁寧な行書で「無我境」とある。地域の発展に尽くした生涯を思わせる。

 だが、家には彼の偉業はほとんど伝わっていないという。「曽祖父だけが立派だったわけではないだろう」。信吉さんは100年前の町の姿を想像しながら思う。「町民みんなで近代化の夢を見ようとした。それを託されたのがたまたま曽祖父だっただけのことです」

 この蔵が誇る酒のラベルが額に入れて飾ってあった。名は「東美(あずまよし)」。信吉さんが「東美(とうみ)鉄道と同じ名前ですよ」と笑った。まろやかだが深みのある清酒の味わいに、苦難を乗り越えて歴史をつないだ鉄路の100年を思った。(野瀬井寛)=終わり

 

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