トップ > 特集・連載 > 鉄道まるっと切り抜き帳 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

鉄道まるっと切り抜き帳

<可児駅> 昔も今も姿を変える

太多線が全線開通して間もないころの広見(現・可児)駅=可児市広見小提供

写真

現在の可児駅。線路上を東西に渡る通路ができるなど、整備が進められている=可児市下恵土で

写真

昔の広見駅のホーム跡があった辺りを指す河原さん=可児市広見で

写真

 下切駅から美濃太田方面の太多線に乗り、2分少したつと、列車は可児市広見から左へカーブする。可児川を渡ると間もなく、同市下恵土にある可児駅に着く。

 1918(大正7)年に開業した前身の軽便鉄道時代から市制が敷かれる82(昭和57)年まで、可児駅は「広見駅」だった。国有化に伴い場所が変わり、かつては現在の市の中心地・広見の、製糸や商業で栄えた村木の商店街の南端辺りにあった。今の駅から南東へ1キロ弱の所だ。

 村木で育ち今も暮らしている河原賢三さん(90)は、駅が現在地に移り太多線が全線開通した28(昭和3)年に生まれた。母の兄は軽便鉄道の敷設を受けて広見駅近くに旅館「続木(つづき)屋」を開いたが、駅が移転すると、新駅前にも旅館を設けた。母は元々の旅館を支店として営んだ。

 地元の人々はプラットホームが残る辺りを「元駅」と呼んだ。昔の地図などによれば、今は病院の駐車場になっている辺り。子どものころはホーム跡で「兵隊ごっこ」をして遊んだ。「長さ10メートルくらいで、小さな子は上れなかったから高さは1メートルくらいだったかな」。御嵩方面へ延びる軽便の線路跡は、広見尋常高等小学校への通学路だった。

 戦争の影が色濃くなっていく幼少期。「活躍してまいります」「家族をよろしく」−。出征を翌日に控えた若者がホーム跡に上り、あいさつを練習する姿を見たこともある。自身も45年2月、陸軍特別幹部候補生として船舶兵に。「1人前の男になれたと思った。そういう時代だった」。8月には、原爆投下直後の広島で救護活動に当たった。

 駅移転を巡り、可児川東の広見町と、川の西の今渡町の間で誘致合戦が起こった。町史や市史によれば、鉄道省は元駅に近い村木の、後に県繭検定所が立つ辺りを候補地としたが、地権者と折り合いがつかなかった。今渡側が用地提供を申し出、駅は川を西へ渡ることに。広見に配慮してか、駅正面は広見町がある東側を向き、駅名も今渡町にありながら「広見」となった。

 可児駅近くで暮らし続ける人によれば、新駅完成前には、駅の西側にも「駅前通り」が造られたと伝わる。太多線の全線開通前年に西側で創業した「御菓子処入口屋」2代目の渡辺義高さん(80)は、「西の禅台寺の山の土で、店の前に4間(7・2メートル)の東西の道路が造られ、中央に桜の木が植えられた。駅の出入り口が東側に決まったので、道を狭くし、桜の木も移したと父から聞いている」。今の店の前の道幅は両端の側溝を除いて4メートル余で、縮められたことになる。

 東側で肥料や農薬、種苗などを販売する大野屋商店も4代続く老舗。3代目大野義隆さん(83)の祖父銀一さんが、開通を見越し前年に御嵩町伏見から移り店舗兼住居を構えた。重い肥料を扱うのに駅からの距離は重要だった。「宿場で大きな町だった伏見から、当時は何もなかった駅前に出てきてくれた。この地で商売を続けられており、祖父母に感謝している」と話した。

 現在の可児駅。駅前広場の整備が東西で今後も進められる予定で、その姿を変え続けている。線路を渡るには長らく地下道通路しかなかったが、今年3月に2階建て通路ができ、地下道は埋められた。

 西側には市多文化共生センターフレビアが立つ。日本語や母国語を学ぶ多くの外国人の姿がある。東側には5月、新施設「市子育て健康プラザ」(mano(マーノ))が開所し、親子連れが増えた。活気に乏しいともいわれてきた駅に、また新たな風が吹きつつある。 (神谷慶)

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索