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鉄道まるっと切り抜き帳

<下切駅> SL貨物が坂上がれず戻ってきた

できてまだ数年の下切駅で溝口さんが撮影した家族=可児市下切で

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現在の下切駅=可児市下切で

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駅建設に寄付した人の芳名録を紹介する長谷川さん=可児市下切で

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 JR下切駅は、可児と多治見の市境が複雑に入り組む地域にある。辺りは田畑が残るものの、近くには住宅が立ち並ぶ何カ所もの団地、県内最大規模の可児工業団地がある。待合所だけがある無人駅だが、朝夕は通勤客や学生の姿が多い。

 由緒を知ろうにも文献は多くない。可児市史に駅の記述はなく、可児町史には「1952(昭和27)年12月下切駅が地元の陳情と用地提供などによって実現した」とあるばかり。JRに尋ねても、完成時期などの明確な答えは得られなかった。

 一方、多治見市史には姫駅について「太多線敷設の際、大藪口駅と下切駅を合併して設置」とある。元々の軽便鉄道の線路幅を拡幅して太多線が全線開通したのは28年で、52年よりだいぶ昔のはず−。不思議に思って、駅の東を南北に走る旧国道を南下し、郷土史に詳しい宮嶋和弘さん(79)=陶技学園理事長=が住む同市大薮町へ向かった。

 「18年、前身の鉄道開通時には南から大藪口、現在の下切駅の場所に姫、広見(現・可児)駅があった。国鉄に買収され、開通から10年後には乗降客が少なかった下切の姫駅をなくし、大藪口を姫駅とした」。宮嶋さんが説明してくれた。復活に至ったのは「52年に可児の広見に中部中学校ができ、通学の足が必要になったからでは」と推測する。

 駅の南を東西に走る市道42号を歩く。おばあちゃんが「近くに元国鉄職員さんが住んでいるよ」と教えてくれた。溝口数夫さん(91)は14歳から55歳まで多治見駅と名古屋駅で主に信号係と操車係を担った。

 溝口さんも「現在の駅付近に軽便鉄道の駅があったが廃止され、今の姫駅ができたと父から聞いた」と語った。「戦中の頃は石炭の質が悪く、貨物列車が姫駅にかけての坂を上がりきれずに戻ってきた」「乗る人が少なく、普通列車でも通過する列車が多くあった。人が増えるにつれて止まる本数も増えた」。貴重な話を教えてくれた。

 復活に当たり、国鉄は地元にも負担を求めたようだ。姫治地区の元自治連合会長の長谷川哲さん(82)が「貴重な資料がある」と青木老人集会所まで案内してくれた。かもいに掛かる縦53・5センチ、横154・5センチの木製の芳名録。「下切駅新設寄付者御芳名」とあり、駅周辺の下切上(かみ)地区の国京、山寺、青木の住民を中心に121行にわたり、寄付金額と名前が筆で書かれている。52年12月に記されたようだ。

 近くの公民館にあったが、建て替える時に長谷川さんが預かり、昨年集会所に掛けた。金額は100〜10万円。「54年の自分の初任給が6400円だから、10万円だと今なら200万から300万円かな」

 駅ができて数年後、多治見市と可児町への合併を巡り、姫治村では南北対立が激化した。下切上から国京・白山地区のみが多治見市に加わった。長谷川さんは「結果的にそうなったが、住民の全員が寄付し、駅の建設には一丸だった。駅のおかげで人口が増え、地域の発展につながった」。

 周辺では白山、北姫ニュータウン、みずきケ丘など住宅団地が次々と造成された。64年にできたばかりの多治見市営国京団地(姫町6)に入居し、今も近くで暮らす細田武重さん(82)は「山だった場所にどんどん家が建った。近くに駅がある影響は大きかったと思う」と振り返る。

 駅ができたとされる52年から4年後の春、28歳の溝口さんは初めて買った一眼レフで、待合所の前に並ぶ25歳の妻高子さんと2歳6カ月の長女由美子さんを写した。2人の脇に写る桜とみられる幼木は後に美しい花びらを散らせ人々を喜ばせたが、大木となって切られ、今はもう姿はない。「駅のおかげで、田んぼしかなかった所に家が建った。桜もなくなり、時代は変わった」と溝口さん。「昔の自分は4人の娘を育てるのに一生懸命で、この駅から通勤し、娘も通学し、家族旅行にも行った。駅があることに慣れてしまったけど、ありがたかったよね」 

(神谷慶)

 

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