トップ > 特集・連載 > 鉄道まるっと切り抜き帳 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

鉄道まるっと切り抜き帳

空襲直前に夜行列車の1000人救う 当時の豊橋駅長、ダイヤ無視しC59発車

豊橋空襲で被害を受けた貨車など=1946年、豊橋市で(「日本国有鉄道百年写真史」より)

写真

線路を見ながら当時を振り返る川端さん=豊橋市で

写真

 太平洋戦争中だった73年前の1945年6月、豊橋市を襲った「豊橋空襲」の直前に、米軍機の襲来に気付いた豊橋駅の駅長がダイヤを無視して旅客列車を発車させ、1000人余の乗客の命を救っていたことが、当時の機関助士川端新二さん(89)=春日井市=の証言で分かった。川端さんは「発車を待っていたら空襲の犠牲者は倍増していた」と話す。 

 川端さんは当時、機関車のかまに石炭を入れる作業を担当。45年6月20日未明、豊橋駅上り本線には大阪発東京行き夜行列車が停車中だった。運転室に「間もなく空襲が始まる。とにかくすぐ出てください!」と駆け寄ってきたのは、駅長の指示を受けた駅助役だったという。

 最新鋭のC59型機関車がけん引する満員の15両の車両には1000人以上が乗っていた。既にB29爆撃機136機の低いエンジン音が遠くの空で響いていた。

 定刻まで2分を残し、機関士の「行くぞ、ええか」の声を聞き、16歳だった川端さんは機関車のかまに石炭を入れ始めた。汽笛の合図とともに浜松駅に向けて動きだす車両。2分後、運転室から身を乗り出して後ろを確認すると、豊橋は猛火に包まれていた。

 米軍機は市内に焼夷(しょうい)弾約1万5000発を投下。豊橋駅で川端さんの列車の数メートル隣に停車中だった軍用臨時貨物列車の弾薬が誘爆し、駅は配電室などを残して壊滅した。しかし、山口龍作駅長の機転や駅員の懸命な対応で空襲による市内の死者624人のうち、駅員の犠牲は1人のみだった。

 川端さんのこの日の乗務区間は名古屋−浜松間の往復。豊橋駅の線路が復旧し、下り列車で豊橋駅に戻ったのは20日夜だった。「入線した豊橋駅は焦げた臭いが立ち込め、骨組みになった客車と散らばった台車が前照灯に浮かび上がった」

 84年の退職まで東海道線を中心に活躍した川端さん。その後も何百回と豊橋駅に停車したが、空襲の夜を思い出さなかったことは1度もないという。

 「当時は軍国少年で本土決戦や1億玉砕とやみくもに考えていたが、今思うと国にだまされていた。列車は格好の標的で、乗務は戦場に向かうのと同じだった。戦争は悲惨。とにかく戦争はしてはいけない」

(五十幡将之)

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索