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鉄道まるっと切り抜き帳

<小泉駅> 桜の下で亡き父思う

1942年、駅長官舎の前で撮った家族写真。左端が庄平さん、右端が吉田さん=吉田さん提供

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駅舎横に立つサクラの木の下で、亡き父に思いをはせる吉田さん=多治見市小泉町で

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 朝夕は近隣の多治見西高生ら多くの通学客が目立ち、目の前には学習塾もある駅舎の横。小走りで駆け込んでくる若者たちを見守るように、サクラの大木が立っている。葉は虫に食われ、樹皮はめくれながらも、灼熱(しゃくねつ)のアスファルトに根を張っている。

 「だいぶ老木になっちゃったなぁ」。1941年3月から国鉄小泉駅の駅長を務めた父と、駅構内にあった官舎に住んでいた吉田紀光さん(87)=多治見市明和町=は、サクラにそう語りかけながら、しわの深くなった右手でなでた。「当時と変わらないのは、このサクラだけだ」

 父の庄平さんは45年7月15日、小泉駅と走行中の列車を米軍戦闘機が機銃掃射した「多治見空襲」に巻き込まれた。駅舎の屋根を突き破った銃弾は庄平さんのこめかみを貫き、ホームで倒れた。一度は病院に運ばれたが、入院できる場所もなく、駅で手当てを受けることになった。間もなくして、サクラの下で息を引き取った。45歳だった。

 吉田さんは当時、土田村(現可児市土田)の軍需工場に勤労動員されていて、帰り道の広見駅(現・可児駅)で「お父さんが亡くなったよ」と知らされた。実感が湧かぬまま太多線に乗り、小泉駅のホームに降り立つと、いつもいるはずの白い手袋をはめた父がいなかった。

 「ポー」。耳なじみのある発車の汽笛はいつになくかすれて聞こえ、せきを切ったように涙があふれた。官舎にいたのは、頭を包帯で巻かれた父だった。

 大切にしている写真がある。42年、駅長官舎の前で、サイパン島に出征する兄ら家族7人で記念に撮った写真だ。庄平さんは駅長の制服、制帽姿で、真っすぐにカメラを見つめている。

 「とにかく厳しい人だった」。通学で姉が列車に乗り遅れそうになっても「発車、オーライ」。置き去りにして、定刻通りに発車させた。満員の列車内に向かって「もっと詰めて、奥に入って」と言い放ち、乗客からは「かみなり駅長」とも呼ばれたらしい。

 あれから73年。周辺の景色は変わり、汽笛も聞こえなくなった。吉田さんは今、空襲の語り部となり、サクラの下で講話したことも。「ずっと見守ってくれているこのサクラも語り部の1人。『ぼっちゃま、大きくなったね』と言っている気がするよ」

 (斎藤航輝)

 

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