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鉄道まるっと切り抜き帳

<多治見駅> 最盛期にSLなど50両管理

JR多治見駅で発車を待つ太多線のディーゼルカー「キハ75」。開業当初は右手(北側)に「新多治見駅」があった=多治見市音羽町で

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旧機関区の門柱の前でくつろぐ藤田さん父子=多治見市白山町の駅北第一公園で

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 多治見市の多治見駅から美濃加茂市の美濃太田駅まで17・8キロを結ぶJR太多(たいた)線が今年、開業100年を迎える。花形の特急や急行はないものの、地域の暮らしとともに歴史を刻んできた。そんなローカル線の魅力を、各駅停車の「ぶらり下車」で紹介していく。

     ◇

 1日約300本の列車が行き交うJR多治見駅。中央線を走る銀色の新型電車が目立ち、蒸気機関車(SL)が威容を誇っていた往時を思い浮かべるのは難しい。面影を伝えるのは太多線ならではのディーゼルカー(気動車)くらいだろうか。今も電化されていないからこそ、ごうごうと響く力強いエンジン音−。

 「新多治見駅」と「広見駅」(現・可児駅)の間に初めてSLが走ったのは1918年12月だ。小型で速度は遅かったが、つらい峠越えから解放された役人たちを喜ばせたという。新多治見駅は現在の駅より少し北で、レールが走っていた場所も1・5キロほどの区間は今と違っていた。町の中を斜めに横切る側溝や道路に線路の名残がある。

 駅が現在の場所に統合された後、旧駅の跡地は車両基地「多治見機関区」になった。多治見市図書館にあるほぼ唯一の資料「多治見機関区五十年誌」(1985年)をひもとくと、最盛期にはSLなど50両を管理し、400人が働いていた。SL引退後も昭和60年代まで存続したのは、ディーゼルカーのためだった。

 「立ち並ぶ独身寮や社宅はどれも立派な造りでね。職員用のお風呂は1日中沸かしっ放しで、おっかなびっくり使わせてもらった」

 近所で生まれ育った坂崎芳子さん(92)=同市白山町=が、鉄道職員の子と仲良しだったころの思い出を教えてくれた。現在の精華医院付近にあった正門の横には安全祈願の不動尊が鎮座し「年に1度、お祭りでお菓子をもらえるのが楽しみだった」。女学生時代には授業で転車台を見学したそうだ。

 機関区の売店では生活用品が市価より安く買えた。敷地に石炭の燃え残りが積み上げてあり、近所の住民がスコップで家に持ち帰り、薪の代わりにした。おとがめはなかったという。

 国鉄職員だった方のお宅も何度か訪ねたが、不在でお会いできなかったため、機関区正門の門柱が移設されている駅北第1公園へ足を向けてみた。「多治見機關區」「禁無断入場」の文字は当時の写真と同じだ。

 土曜日の昼下がり。門柱前のベンチで、会社員の藤田薫さん(51)と愛優美(あゆみ)ちゃん(4つ)父子=同市前畑町=が菓子を食べながらくつろいでいた。再開発が進む新市街にあって、少し落ち着ける空間だという。「ほら、電車が来たよ」。愛優美ちゃんとともに指さす先を見つめると、かたんかたんと列車の音が風に乗って聞こえた。 (野瀬井寛)

 JR太多線 かつて東濃の中心都市だった御嵩町の有力者らが出資して1918年12月に「東濃鉄道」(現在の東濃鉄道とは無関係)として開業。当初は新多治見−広見(現・可児)のみ。20年8月に広見−御嵩(現・御嵩口)が加わった。第1次世界大戦で資材価格が高騰したため、レール幅(軌間)が762ミリと狭い低規格の「軽便(けいべん)鉄道」として建設費圧縮が図られた。

 26年に新多治見−広見間のみ国有化され、通常の規格(軌間1067ミリ)で美濃太田まで全線開通したのに伴って「太多線」となった。広見−御嵩は名鉄広見線に引き継がれている。

 

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