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認知症鉄道事故(下) 宮崎正嗣(大府通信局)

認知症事故でJR側の逆転敗訴を伝える紙面

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 認知症をいち早く題材にした小説として知られる有吉佐和子の「恍惚(こうこつ)の人」(一九七二年)には冒頭、信用金庫を退職し隠居生活もすでに二十年以上になる舅(しゅうと)の茂造と、嫁の昭子のこんなやりとりがある。

 「むこうから背の高い老人が、まっ直ぐにこちらを向いて歩いて来るのが見えた。どういうわけか血相が変っている。ネクタイをしめ皮靴をはいているが、外套は着ていない。傘も持っていない。雪の中を出てきたにしては様子がおかしい。『お父さん、お父さん』。昭子は声をあげて呼んでみたが、舅は足早で、もう少しで昭子とすれ違って行き過ぎるところであった。(中略)『おや、昭子さんですね』。舅は立止ると、不思議そうな顔をして、彼の長男の嫁を眺めていた。」

 この後、「どこへいらっしゃるところだったのですか?」と問われた茂造は質問に答えず、舅の認知症に気づいていない昭子との会話はかみ合わない。ただ後のくだりで、茂造が出がけに「婆さん(亡き妻)を迎えに行きます」と言い残して家を出た、という娘京子の証言があり、茂造が彼なりの「目的」をもって家を出たことがわかる。

◆行動には目的がある

 「徘徊(はいかい)」が認知症の用語として社会に広まったのは「『恍惚の人』がきっかけではないか」と指摘する国立長寿医療研究センターの遠藤英俊長寿医療研修センター長(老年医学)は「おおむね、認知症の徘徊と呼ばれる行動には目的、理由がある」と指摘する。

 小説ではその後、茂造が警察などに保護されても、目的を語る場面はない。有吉も「目的がある場合もある」程度の認識だったのかもしれない。半世紀近く前の当時は認知症を「ぼけ」「痴呆(ちほう)」などと呼び、研究が進んだ現在と比べて、医学的にも分からないことが多かったと思われる。

 二〇〇七年十二月にJR共和駅(愛知県大府市)の線路内で列車にはねられ亡くなった高井良雄さん=当時(91)=の主治医でもあった遠藤さんは、「長男(隆一さん)などの話を聞いていると、本人は事故時、トイレに行きたかったのではないかと思う」と話す。高井さんはズボンのチャックを開けた状態で倒れ、事故現場へのルートを繰り返し歩いた隆一さんは、そう確信した。

 徘徊の症状は認知症患者のうち、三〜四割に起こると言われ、代表的なのは「夕暮れ症候群」。夕方になると『家に帰らなくては』と感じる不安から生じる行動だ。以前の勤務先に向かうこともある。知らない場所で突然一人になるとパニックになり、誰かを捜して歩き、道に迷ってしまうことも多い。

 遠藤さんは「徘徊という言葉により、認知症患者が危険、大変というレッテルが貼られているのは問題。あてもなくうろつき回っているわけではなく、本人には目的がある場合が多い。そうと知っていれば、周囲の声のかけ方も変わってくるはずだ」と訴える。

 小説の中で「徘徊」は、昭子が福祉事務所の職員と舅を福祉施設に入所させるべきかを話し合う場面で使われる。このとき昭子は「徘徊」を知らなかった。認知症の用語としては定着していなかったと思われる。

 徘徊は本来、非行少年の夜遊びなどに使うのが一般的だろう。六月末に富山県で起きた交番襲撃事件では、「銃奪い住宅地徘徊」と書かれた見出しもあった。まだ社会に広まっていなかった言葉として「徘徊」を選んだのは、「不気味でよく分からない行動」という当時は一般的だった受け止め方の反映とも思われる。

 裁判では、高齢化社会で誰にでも起きうるこのような事故の責任を個人に負わせるのか、社会全体の問題として問われるのかが問われ、賠償のあり方に一定の答えが出された。だが、問題の根底には、「徘徊」とは何か、当人の頭の中では何が起きているのかという理解が進んでいない社会の現状がある。そして、周囲はどう対応するべきなのか、多くの人は理解できていないのではないか。

◆普通の言葉で話して

 遠藤さんは「認知症の人は、歩き方や身なりなどから見分けられることが多い。“今日は暑いですね”といった、日常のあいさつのような言葉で話しかけてほしい」と提言。必要に応じて警察や民生委員などを呼ぶのが望ましいという。

 危険なイメージが支配的な社会のままでは、またぞろ「縛り付け論」が頭をもたげるきっかけにもなりかねない。私たちがまだ、雪の中で舅の茂造と出くわし、戸惑う「昭子」と変わらぬ状態にとどまっているのなら、この半世紀の間に判明した医学的な情報を埋め合わせ、対応の仕方の周知を広げることが大切だ。

 

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