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シベリア抑留の記憶(上) 深世古峻一(京都支局)

抑留時代の体験を小学生たちに語る安田重晴さん

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 あの戦争から七十四年目の夏。体験者の「語り」は二重の意味で貴重だ。一つは、語り部が極めて少なくなっていること。もうひとつは、残酷な記憶を語る体験者の決意をおろそかにできない、という意味からだ。

 シベリアに三年間抑留された「生還者」の一人、安田重晴さん(97)が京都府・舞鶴港に引き揚げてきた一九四八年当時は「話せる雰囲気ではなかった」。共産圏のソ連で思想教育を受けたという風評が帰還者についてまわり、警戒のまなざしが向けられていたからだ。

 「もう誰にも話さんと誓った。とにかく人と話すんが嫌やった。共産主義で人に疑われるのが嫌でな。抑留者は就職も全然できひんのや」

 一度は誓った安田さんが語り部になったのは八八年、舞鶴市に舞鶴引揚記念館が完成し、市から頼まれたのがきっかけだった。市の職員だった時期もあり「断るに断れなかった」と言う。以来、体験した苦しみや恐怖を絞り出すような語りは、七十数年前の出来事をあたかも今、目の前で起きているかのように繰り返し再現してきた。

 仲間の死と直面した場面。安田さんの口調に力が入る。

 「鉄道でソ連に入ってまもなく、急に列車が止まった。外へ出たら様子がおかしい。『誰かが銃殺される』みたいな話を皆がし始めた。どうも逃亡しかけた人がいる、と。ソ連兵二人が逃亡兵を私の目の前、十メートルくらいのところへ連れてきた。後頭部を自動小銃で撃ち、倒れた後も続けざまに何十発も。死体は放置され、たぶんオオカミに食べられでもしたと思うわ。ソ連兵は『逃亡者が出たら所属長は全員殺したる』と。捕虜の情けなさを感じたな。何をやられても反発できんのやからな」

 餓死者が続出していく場面では生々しいエピソードが語られる。

◆栄養失調で死亡次々

 「朝晩はコーリャンという穀物のおかゆ。ほとんどがお湯ではしも立たん。昼は三百五十グラムの黒パン。食料事情が悪いと五十グラム。大の男が重労働後に食べる量やない。みんな栄養失調になる。次から次へと死んでいった。おかゆは飲むと二、三分で終わるから、みんな食べ方も考えた。人が食べとる時は食べずに、食べ終わったら自分が食べる。そうすると、前の人と自分の分、二人分を食べた気になるんや」

 安田さんも当初六五キロあった体重が三八キロにまでなり、周りから「おまえは生きて帰れない」と言われ続けた。なぜ生還できたのか。「ひょっとすると」と思い当たる節がある。

 「近くでトマトやらバレイショを作っている農場があった。一日でトマト百個食べたりしてた。結果的にはそれが良かったのかもしれん。野菜が不足していたからな。タマネギでもネギでもひっぱってきて、ご飯の代わりに食べてたわ。それまでは体が弱って、夜はとり目で全然目がみえんかった。それが農場で野菜食べて治ったわ」

 安田さん自身体力がある方ではなく、常に死と隣り合わせだった。

◆移動中、倒れたら銃殺

 「収容所間の移動中に三日間歩かされたことがあった。氷点下三〇度。体力のない者からどんどん倒れていく。倒れた捕虜をソ連兵が銃殺する。助けるんやなくて、邪魔なんやな。向こうの死亡名簿ではそのへんの経緯が全然わからへん。そうやって殺されたのが何人もおる。わしも三日目に倒れた。その前にわしの班の一人も銃殺された。次はわしというわけや。倒れかけた時にわしの友人がわしを殴ったり蹴ったりしてくれた。意識を失わんようにしてくれた。なんとかして目的地まで連れて行ってくれた。そのときの戦友に感謝している。殴る蹴るしてくれんかったらわしはそこで死んでいたはずや。ほんま意識を失う寸前やった」

 小学生を相手に話すとき、必ずこう言い添える。

 「シベリアを現役で体験した人はほとんどおらんくなってしまった。じゃあみんな死んでしまった時にどうするんやと。これからはあんたらが聞いた話を伝えてほしい。何で自分がこんなに苦労したかといえば戦争やからや。戦争だけは絶対にせんといてほしい」

 約三十年、語り部を続けてきた。かつては何時間話しても苦ではなかったが、今は「できれば一時間ぐらいがいい」と館の職員に要望している。「頭の回転も鈍くなった。おもてることの半分もよう言わん」と衰えを感じてきている。

 舞鶴の記念館に残る体験者の語り部は安田さんと原田二郎さん(94)の二人だけ。忌まわしい記憶の糸を手繰って振り絞る語りをいかに継承するか、重い課題が残されている。

 

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