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「サリバン」たちの奇跡(5) 添田隆典(生活部)

同級生と触手話を交わす小学2年生当時の森敦史さん(左)=岐阜市の岐阜県立岐阜聾学校で

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 岐阜県立岐阜聾(ろう)学校小学部に入学したころ、森敦史さん(26)はある理由で一部の子どもたちから敬遠されていた。

 「森君は、かむ」

 幼い子どもたちの間で、おもちゃの取り合いは日常茶飯事。でも、見えない聞こえない森さんは圧倒的に不利だった。身につけたのが、おもちゃを横取りする「犯人」の手が触れた瞬間、その手にがぶりとかみつくことだった。

 付き添い指導を担当した教諭の今枝みどりさん(49)にも思い当たる節はあった。入学前、森さんが通っていた地元岐阜市の「みやこ園」を訪れた時のこと。突然、子どもが大泣きしたと思ったら、園の先生が目を離したすきに、森さんがその子の手にかみつき、取り返した積み木でうれしそうに遊んでいたのだ。

 実は、かむことを覚える前は、おもちゃを取られてもぽかんとするだけだった。なぜ手元から突如として消えたのか、誰の仕業かも分からないため、怒りが湧くこともなかった。それを見ていたみやこ園園長(当時)の伊藤泉さん(76)は、職員にわざとおもちゃをもぎ取らせた。四回、五回と繰り返すうち、とうとう森さんが口をすぼめて表情をゆがめた。伊藤さんはすかさず手を取って教えた。

◆感情育む試み続く

 「こういうときは、『悔しい』ってやるんだよ」

 見えなくて聞こえないということは、それだけ感情を揺さぶられる場面が限られる。あえて「怒り」を引き出そうとしたように、周りの大人が意図して感情を育む試みが必要だった。伊藤さんは母貞子さん(57)にも指導した。

 「子どもの表情、動きをよく観察して、感情が動いた瞬間に言葉を入れなさい。一歩前じゃない、お母さんはいつも半歩前を歩くの。お人形を育ててるわけじゃないよね」

 「かむ」という行為は、おもちゃを取られたことが理解できたという意味で、一歩前進だった。けれど、「嫌だ」と表現できるようになるには、さらに時間が必要だった。

 話を聾学校に戻そう。ある日の休み時間、教室内を走り回っていた同級生の男の子が、勢い余って森さんにぶつかった。とっさに「ごめん」と手話を繰り出したのは森さんの方。それを見て、謝る立場の男の子が「いいよ」となぜか許していた。見えない森さんには、どちらのせいか、判断がつかない。そのため、先に謝ってトラブルを回避する生き方が身についていた。

 今枝さんは、ぶつかられた森さんがわびる光景を見て気づき、まずはぶつかった男の子に注意した。「敦史君は見えないんだから、『僕がぶつかったから、僕がいけないんだよ』って分かるように謝らないと」。その上で、森さんにも「敦史君はぶつかられたんだから、怒らないといけないんだよ」と教えた。

 今枝さんは森さんが何らかの“被害”に遭うたび、相手が誰でどんな状況だったのかを説明し、あえてけしかけた。「怒れ怒れ、嫌だって言え」。理不尽なことには「嫌だ」という感情を表して伝えないと、相手の「ごめん」の意味も理解できないし、仲直りも生まれないからだった。

◆「友達」へ強い関心

 入学したてのころ、森さんは手話で「友達」と連発し、同級生が何をしているのか質問するのが癖だった。「I君が算数の数え棒を組み立てているよ」と伝えると、自分もまねをし、「Yさんが折り紙を折っている」と聞けば、折り紙を要求してきた。学校という場に放り込まれ、一人では何をすればいいか分からない。その不安を和らげようと、とにかく周りと同じことをしようとしていた。

 でも、友達の輪に入りたいと意思表示することはなかった。同級生が手話でおしゃべりしていても、廊下を走っていても、見えないし聞こえない。自分が関心を寄せないと、彼らは存在しないのと同じだった。「手話で『友達』という言葉を出していたけれど、せいぜい『周りにいる子』ぐらいの理解だった」。今枝さんにはそう映っていた。

 同級生にとっても、目の前で手話をしても伝わらない森さんは異質の存在だった。今枝さんは森さんとの間で交わした約束事を、クラスみんなに広めた。森さんに話しかけたいときは彼の肩をトントンとたたき、本人が気づいて手に触れてくれば、名前を名乗る。給食でべたべたになった手で話しかけてくる森さんに手を焼いた今枝さんが編み出した、あのルールだった。

 手のひらを介したやりとりが始まり、「友達」の存在は徐々に輪郭を取るようになる。それに伴い、森さんの好奇心も一気に開花していく。同級生は、森さんと外の世界との懸け橋でもあった。

   ◇

 ヘレン・ケラーの幼少期を描いた映画「奇跡の人」は、実は家庭教師のサリバンを指している。生来、見えない、聞こえない、話せない、の三重苦で国内初の大学院生になった森敦史さんにも無名の教師たちの献身があった。そんな「サリバン」たちの奇跡を追う。

 

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