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「サリバン」たちの奇跡(4) 添田隆典 (生活部)

積み木を建物に見立てて、立体の地図を作る小学5年生ごろの森敦史さん。「触れる」ことの体験が、学びの原点にあった

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 ふるさとの岐阜市にある難聴児通園施設「みやこ園」を巣立った森敦史さん(26)が次に進んだのは、岐阜県立岐阜聾(ろう)学校小学部だった。付き添い指導を担当した教諭の今枝みどりさん(49)は森さんを受け持ってすぐ、頭を抱えることになる。「学校生活で使う言葉を何も知らなかったので、逆に何から手を付けていいのやらって感じでした」

 森さんにはどの程度の語彙(ごい)があったのか。彼の大学の卒業論文にこんな記述がある。「諸説あるが、小学校入学時の語彙数は、一般的に、健常児は3000から7000語程度、聴覚障害児では2000から2500語程度、視覚障害児においては、健常児と大差はない」。これに対し、森さんが理解できた語彙数は「200程度」。

 みやこ園で、例えば「切る」という言葉を刃物で指を切る体験を通して覚えたように、血のにじむ努力を重ねても、それほどのハンディがある。当時の森さんにとっては、「国語」や「算数」はもちろん、「給食」「教科書」も未知の単語だった。

◆一つ一つ刷り込む

 今枝さんはこれらの言葉を一つ一つ、彼の脳裏に刷り込んでいった。たとえば、「集会」。入学してすぐのころ、今枝さんが「今日は五時間目に集会があるよ」と森さんに触手話で伝えても、分かったような表情をするのはせいぜい「五」ぐらい。集会がある教室に連れて行くと、同級生の五人はすでに一列に並んで座っている。目が見えない森さんには、自分から最後尾に座ることも難しい。今枝さんは、同級生の肩や手を前から順番に一人ずつ森さんに触らせた。

 手のひらに等間隔で体温が伝わり、びっくりする森さん。次は隣の二年生の列へ行き、最後は六年生の列まで手で確かめた。何日か続けると、森さんは要領をつかんだのか、途中で「自分の列に座る」と伝えるようになった。正確に「集会」の意味を理解したわけではなかったが、「みんなで並んで座る」と分かれば、十分事足りた。

 食べ物の語彙も単純だった。森さんは小学校に入るまで、米を使った料理はなんでも「ごはん」、パンを使った料理はすべて「パン」、肉が入った料理も全部「肉」と表現していた。

 学校給食は日替わりで違うメニューが並ぶ。今枝さんは出てきたメニューの中から、森さんでも知っている具材を頼りに、言葉の幅を広げていった。「パンの間に卵があるでしょ。これが『卵サンド』って言うの」「タケノコとピーマンが入ると、『チンジャオロース』。肉じゃないよ」

 手づかみで食べる料理は手触りもヒントになった。サクッとした歯応えに、指先に残る油っぽさ。しっとりした食パンとは違う感触が、揚げパンとサンドイッチの間に境界線を引いた。

◆食べ物にまみれて

 見えにくさは、食べにくさでもあった。魚の骨を取る際は手を使わざるを得ず、サンドイッチなどの中身もついこぼしてしまう。手や口の周りを汚さずに食べるのは容易ではなかった。それでも、お構いなしに疑問は湧いてくる。魚フライに載ったタルタルソース一つにも、「これは何だ? この前の魚フライにはなかったのに、なぜ今日はある?」と、隣で食べている今枝さんに尋ねてきた。

 教師としてはうれしい半面、手を焼いたのが、森さんが手探りで体に触れてきたことだ。「こちらがスープを飲んでいようがお構いなしだから、よくこぼしましたし、魚やみそのあえ物に触った手で触れるから、片方の袖はしょっちゅうべたべたでしたよ」。そんな日は決まって、ロッカーにしまってある予備のトレーナーに着替えるはめになった。

 教え子のため汚れ役を引き受けるのが教師だとはいえ、困った。今枝さんは一つのルールを考え出した。森さんに話しかけるときは必ず、彼の肩をトントンとたたくようにした。すると、森さんも話したいときは、彼女の肩をトントンとたたいてくる。それを合図に、今枝さんが「何?」と触手話で伝えると、滑らかに会話が始まった。おかげで森さんが手探りで相手を探すことも、体をべたべたにされることもなくなった。

 けがの功名というべきだろう。この方法が、まもなく知ることになる「友達」という存在との会話方法としても定着していく。

      ◇ 

 ヘレン・ケラーの幼少期を描いた映画「奇跡の人」は、実は家庭教師のサリバンを指している。生来、見えない、聞こえない、話せない、の三重苦で国内初の大学院生になった森敦史さんにも無名の教師たちの献身があった。そんな「サリバン」たちの奇跡を追う。

 <森敦史さんの生い立ち> 1991年、岐阜市生まれ【2歳】みやこ園【6歳】岐阜聾学校【10歳】筑波大付属盲学校転入【12歳】同校寄宿舎入寮【18歳】受験で留年【19歳】ルーテル学院大社会福祉学科【25歳】2017年、筑波技術大大学院

 

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