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メメント・モリ

第6部「別れの後で」 (2)悔いない看取り

亡くなった妻の写真を見て思い出を振り返る中島良明さん。悔いのない別れだったが、寂しさばかりが募る=京都市で

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 「みなさんが、うらやましいです」。二年前の春、京都市で開かれた認知症の当事者や家族の集い。症状や介護の悩みを打ち明ける参加者に、中島良明さん(78)=同市西京区=は思わずそう言った。

 テーブルを囲んだ十数人を前に、胸の内を続けて明かす。「世話がしんどいというのは、相手がいるということでしょ。ええなあ」

     ◇ 

 その半年ほど前の二〇一五年十月、中島さんは妻紀美子さんを七十四歳で亡くした。東京五輪が開かれた一九六四(昭和三十九)年に結婚し、五十一年連れ添った妻。認知症に加え、神経の異常で徐々に体が動きにくくなるパーキンソン病も患っていた。二人の息子は独立し、ほとんど一人だけの介護生活が十二年続いた末だった。

 紀美子さんは簡単な伝言、昨日会った人、ついには家族の顔も忘れていった。五十代のころは何度も一緒に海外旅行に出かけていたが、七十歳を前に車いすに頼る生活に。やがては、スプーンで口まで運ばれた食べ物をのみ下すこともできなくなった。

 生きるためには胃に穴を開け、チューブから栄養を注入する延命措置が必要だった。でも、中島さんは妻を最後の二年ほど入所させた特別養護老人ホームで、人工的に命をつなぐ手段を選ばなかった。

 迷いがなかったわけではない。やせ細っていく紀美子さんを見て、特養の医師に「先生、私は妻を飢え死にさせようとしているんでしょうか」とこぼしたこともあった。ただ、中島さんの頭には、元気だったころ「お互い、チューブを入れて生き続けるのはやめたいね」と交わした会話が残っていた。

 「悔いのない決断だった」。中島さんは当時を振り返る。食事を取れなくなって一カ月後、紀美子さんは苦しむ表情もなく息を引き取った。告別式では「家内は人生をまっとうしました」とあいさつすることもできた。

     ◇ 

 それでも、後に感じたのは、寂しさばかりだった。

 ダンスパーティーで引かれ合って結婚し、パートで家計を支えながら子育てに励んでくれた。たわいのない冗談を言い合える相手でもあった。「だから、介護に追われた日々でも一緒にいられる喜びがあった」

 歩くのが難しくなった紀美子さんの手を握って町を散歩した日は、胸が高鳴った。「元気なころは恥ずかしくてできなかったから」。特養に入った後も、毎日会いに通った。

 その妻が、もういない。ともに使った食器を洗う台所、いつも車いすを押して歩いた商店街。どこにいても、それを思い知らされた。介護生活の時から通っていた認知症の会合で「うらやましい」と漏らしたのは、そんなころだった。

 自らの選択で妻を看取(みと)ってから、間もなく三年。中島さんは認知症の会合で知り合った仲間たちと、死別後の思いを打ち明け合う会をつくった。高齢化が進み、二〇〇〇年に八百六十三万人だった配偶者との死別経験者は一五年に九百五十八万人と、百万人近く増えている。

 会の仲間と寂しさを共有することで自身も救われる思いだが、妻を忘れる時はない。「たまには夢に出てきてくれよ」。一人きりの自宅に夜が来ると、かつて紀美子さんが使った枕に頭を乗せ、中島さんはまぶたを閉じる。

 連載にご意見をお寄せください。〒460−8511(住所不要)中日新聞 社会部「メメント・モリ」取材班 ファクス052(201)4331、Eメールshakai@chunichi.co.jp

 

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