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メメント・モリ

第5部「最期を決める」 (5)住み慣れた家で 

母のお別れ会で、言葉を詰まらせながら思いを語る大月純子さん。がんだった母を自宅で看取った=今月2日、三重県四日市市で

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 花束であふれた祭壇の母は、変わらぬ笑みを浮かべている。三重県四日市市の斎場で今月二日、四十九日の法要後に営まれた「お別れの会」。あいさつに立ち、涙をぬぐう大月純子さん(63)を、八十八歳で亡くなった母志奈さんの遺影が見守っていた。

 母が体調を崩したのは、三年前の十一月だった。四〇度近い熱を出して入院した病院で、肝臓に八センチのがんが見つかった。医師は切除手術を勧めたが、純子さんはうなずけなかった。「手術は嫌」「一日も早くここを出たい」。病院でずっと、母が訴えていたからだ。

 高齢の体で手術に耐えて延命しても、本当に幸せなのだろうか。検査室に入るとき、心細そうに「純ちゃん」と腕をつかんで離さない母を見て、純子さんは覚悟を決めた。手術はせず、親子二人で暮らす自宅で最期まで母の面倒を見る。医師には「後のことは知りませんよ」と言われたが、母は二週間で退院した。

 住み慣れた家で最期を迎える在宅死。厚生労働省や内閣府の調査では、自宅で人生の幕を下ろしたいと望む人が五割から七割に上っている。ただ、かつての三世代同居から核家族化が進み、「老老介護」が時代のキーワードの一つになった今、自宅で世話をしてくれる子どもや孫は近くには住んでいない。一九六〇(昭和三十五)年に70・7%だった在宅死の比率は、二〇〇〇年以降、12〜13%台にとどまっている。

 純子さんは自宅に戻った母に病名を告げなかった。十六年前、同じ肝臓がんで亡くなった父の最期が忘れられずにいた。抗がん剤で命をつないだが、二年間の壮絶な闘病の末、「自分にできるのは死ぬことだけだ」と言い残して他界した。

 「その父と同じ病気だと知れば、母は生きる意欲をなくしてしまうかもしれない。母には最期まで笑顔で過ごしてほしい」

 純子さんのそんな思いを支えたのが、四日市市にある在宅クリニックの石賀丈士院長(43)だった。在宅死を望む患者の希望をかなえるため、〇九年、がん末期の訪問診療を専門とするクリニックを開設した。年間約三百人を看取(みと)っているといい、「かけがえのない思い出をつくることが、本人や残された人の後悔のない最期につながる」と感じている。

 純子さんは思い出のため、毎週のように母と買い物や公園に出掛けた。がんが分かった病院で「一カ月持つか」と言われた母は、外出先で中華料理を平らげるまで元気を取り戻した。だが、誕生日を迎えた今年二月ごろ、再び体調を崩した。食事が取れなくなって点滴に切り替わり、石賀院長は純子さんに「一カ月以内です」と告げた。

 四月十六日の早朝。「はーっ」という普段と違う息遣いで、ベッド脇の純子さんは目を覚ました。急変した母の様子をクリニックの当直医に電話で伝えると、「お別れが近づいています」。昼すぎ、東京から始発で駆けつけた弟(57)と純子さんに両手を握られながら、母は息を引き取った。

 その日、母と一緒に食べようと準備していた炊き込みご飯は「お供えになってしまった」。少し寂しそうに話すが、二年半前にがんが見つかったとき、自宅で看取ると決めた自分に悔いはない。人生の最後を幸せそうに過ごしてくれた母。純子さんは石賀医師への手紙に書いた。「私の人生の中でも、この千日は一日一日が煌(きら)めく宝石のような輝きです」

 連載にご意見をお寄せください。〒460 8511(住所不要)中日新聞社会部「メメント・モリ」取材班 ファクス052(201)4331、Eメールshakai@chunichi.co.jp

 

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