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メメント・モリ

第4部「自分を遺す」 (3)無効 

夫の遺言が無効と分かり相続に苦労した馬渕咲代さんは、自分の意思をどう遺すかを考え始めている=浜松市南区で

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 「この署名は誰が書きましたか」。裁判官に質問され、浜松市南区の馬渕咲代さん(68)は答えた。「主人です」。署名した場所は「病室で」と説明したが、立ち会った弁護士の大石康智さん(61)は「これはまずい」と感じていた。

 二〇一六年一月二十九日、咲代さんは静岡家裁浜松支部で夫省三さんの遺言の検認を受けた。裁判官が開けた封筒の中には白い紙が一枚。パソコンで「全ての財産を妻馬渕咲代に相続させます」と印字され、省三さんの自筆の署名があった。

 がんを患っていた省三さんは一五年六月、六十七歳で亡くなった。遺言を書いたのは、息を引き取る七カ月前。がんは脊髄に転移して立つこともままならず、省三さんの代わりに親族が書いた。体が弱り、文字を書くことさえつらそうだった省三さんは「ここに名前を書けばいいんか」と言い、震える右手で署名した。

 その遺言を裁判官が開封したとき、大石さんは「無効だ」と気が付いた。ただ、咲代さんがショックで倒れるのではないかと思うと言い出せず、数日後、浜松市内の事務所で「この遺言は、法的効力に問題があります」と伝えた。

 遺志を書き残す「自筆証書遺言」。民法は全文と日付、氏名のすべてを本人が手書きし、押印しなければならないと定めている。政府は今年三月、財産目録のパソコンでの印字を認める改正法案を国会に提出したが、遺言そのものは自筆でなければならず、要件を一つでも欠けば無効になるのは現行法と変わらない。

 公正証書を含めた遺言全体の増加に伴い、本人の意思能力が問われるケースも増えた。認知症だった父親の遺言を巡って係争中の東京都内の女性(34)は「症状が現れる前に書いてもらっていれば、争いになることはなかった」。遺産の分割に関する全国の調停件数は、一七年の速報値で一万四千四十四件。十年前の一万三百十七件から四割近く増えている。

 省三さんは、十人きょうだいの三男だった。子どもはなく、夫婦のどちらかが先に死んだら、財産は遺(のこ)された側のものにすると決めていた。遺言の作成を公証人に頼もうとしたこともある。ただ、二人で十万円ほどかかると聞かされて、やめた。

 大工として稼いだ預貯金と先祖からの土地、そして闘病中に建て替えた自宅。「全てを妻に」との省三さんの思いは自筆遺言の無効で宙に浮き、咲代さんは相続権がある親類十二人に、自分への相続を認めてもらう手続きを迫られた。めいは米国にいた。疎遠になっているきょうだいもいた。弁護士の力を借りて全員が同意してくれたが、手続きが終わったのは一七年一月。省三さんが亡くなってから一年半が過ぎていた。

 咲代さんは今、省三さんが遺した家に一人で暮らしている。がんが分かった後に建て替えを決め、省三さんの最後の生きがいだった家。日当たりの良さにこだわった和室で、省三さんは咲代さんにみとられた。

 夫婦の相続を省三さんと話し始めたのは五十歳を過ぎたころ。咲代さんは今月五日に誕生日を迎え、省三さんが亡くなった年齢を上回った。終活を意識する年になったが、遺言の無効で経験した苦労を他の人にはさせたくない。誰に何をどう受け継いでもらうのか、自分の意思をはっきり遺す手段を考え始めている。

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