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日本の夏 花火の夏

 紫陽花(あじさい)の色に咲きたる花火かな(高橋淡路女(あわじじょ))。日本の夏には、花火が似合う。ドドンと打ち上がる大輪。軒下でまたたく線香花火。晩夏から、仕掛け花火を地道に手づくりする集落も。魅力を聞いた。

 <打ち上げ花火> 日本煙火協会などは「打揚花火」と表記する。同協会によると、花火玉の大きさは2・5号(直径6・9センチ)から40号(同114センチ)まで、11種類。充実した細工ができるのは5号(同14・4センチ)以上。40号玉は重さが400キロもあり、東京スカイツリー(高さ634メートル)を超す上空750メートルで開き、花火の直径も750メートル。世界最大の花火玉といわれ、新潟県小千谷市の片貝まつり(毎年9月9、10日)などで打ち上げられる。

◆空に描く「人の一生」 日本煙火協会専務理事・河野晴行さん

河野晴行さん

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 花火のルーツをたどると、紀元前に溯(さかのぼ)ります。秦の始皇帝の時代、万里の長城では火薬の成分を用いた「狼煙(のろし)」が通信手段に使われました。近代花火の発祥は十四世紀のイタリア、キリスト教のお祭りの仕掛け花火でした。ルネサンスとともに欧州に広まったといわれています。

 日本には十六世紀の戦国時代、火縄銃とともに黒色火薬が伝わりました。観賞用の花火が登場するのは江戸時代。一六一三年には英国の国王の使者を案内した明国の商人が、徳川家康に花火を見せた記録が残っています。将軍家をはじめ諸大名の間で流行し、やがて庶民にも広がりました。

 花火大会の原点は、両国の川開きです。時の将軍・徳川吉宗が川開きの日に、享保の飢饉(ききん)と疫病の死者を慰霊する水神祭を行いました。その翌年の一七三三年、川べりの水茶屋などが協賛して「両国川開き花火」が開かれました。以来、これが江戸の夏の風物詩になりました。

 両国花火は戦争で一時中断したものの、戦後に復活しました。ただ一九六一年には、交通量の増加や川の汚染で中止に。十七年後の七八年、当時の美濃部亮吉東京都知事が復活させ、これを機に全国各地で花火大会の復活が盛んになります。

 花火大会はスポンサー方式で開催されるので、やはり経済状況に左右されます。平成の市町村合併で自治体の数が減少したことも打撃になりました。東日本大震災の影響も二年ほどありましたが、もともと花火大会は慰霊や悪疫退散も目的なので、逆に見直された面もあります。やっと昨年あたりから本来の需要が戻ってきた感じですね。最近の流行はひとつの花火に多くの色が見え隠れしたり、開いた後に色が移り変わる花火です。

 花火は、老若男女が楽しめる文化として定着しています。人間は人恋しい生き物。大勢で集まって見たいんだと思います。たとえば隅田川花火大会ですが、川面をあれほどの屋形船が埋め尽くす光景を見たことがあるでしょうか。病気の方も花火を見て喜ばれます。

 長い時間燃えるものもあればチョロチョロで終わるもの、そうかと思えば最後まで立派に散る花火もある。かつて大先輩である老花火師が「花火というのは、人の一生を空に打ちあげているようなもんだ」と言いました。消えるからこそ、美しいんですね。

 (聞き手・出田阿生)

 <こうの・はるゆき> 1950年、東京都生まれ。会社勤務を経て花火師に師事。花火会社社長として隅田川、東京湾などの花火大会を手掛け、米国やタイなど10カ国で日本の花火を打ち上げた。

◆儚さ過去につながる 写真家・川内倫子さん

 二〇〇一年に写真集を三冊同時に出版しましたが、そのうちの一冊が『花火』です。花火を被写体に選んだのは、写真の主題として象徴的なモチーフ(題材)だと思ったからです。一瞬で消え去ってしまう「儚(はかな)さ」を備えた美というところが。そこで何年か、いろんな場所に通って夏の花火を撮り続けました。

 一年目、二年目は、きれいに撮れすぎてしまい、ちょっと違うなと思案しました。写真の練習としてはいいんです。でも、自分が見たい花火はこれじゃない、きれいに写ってなくてもいいんだと、三年目に気が付きました。

 それで視点を変えて、あえて打ち上げの現場から離れたり、手持ちで撮ったり。たくさんの観衆が歩いているところや、花火を見ている後ろ姿の人も撮りました。自分がなぜ花火に引かれるのかを検証し直し、場所の持つ空気感を大事にしました。

 花火の「儚さ」。それは思い出、つまり過去の自分につながる回路でもある。小さいころに家族と一緒に見た花火、高校生のころに友達と一緒に見た花火、偶然遠くから見た花火とか。それは全部過ぎ去ってしまったもの。だから、もう一回見たいと思う。そう考えると、単純に花火を造形的に美しく撮るんじゃなくて、自分が過去に見た花火と重なるような瞬間を撮りたかったんです。

 写真を撮るということは、自分が今ここに生きているという実感を得られる面白いツールだと思うんですよ。私の場合、どの被写体を通せば実感が得られるかということによって少しずつ対象が変わってきて、最近の作品を見た方から「宇宙的な広がりを感じる」といわれたりするんですが、どの作品も私の日常の延長線上にあります。そんな撮影を繰り返していると、自分と宇宙はつながっていたんだなと実感するんです。

 花火を撮っている時もそういう感覚はありました。花火は一瞬で、すぐに消えてしまう。それはイコール死というメタファー(隠喩)になりますよね。美しさ、そして生と死。毎回どの作品の根底にも、そういうテーマがあります。最新作の『Halo』では、光よりも闇に重心を置きました。そのことで逆に光のことが考えられるんです。光と闇、善と悪。世界は相反する二つのものから成り立っているんだと。

 (聞き手・大森雅弥)

 <かわうち・りんこ> 1972年、滋賀県生まれ。2002年、『花火』などで木村伊兵衛写真賞。最新写真集『Halo』(HeHe)が来月下旬に刊行予定。最新作の写真展を9月、熊本で開く。

◆「手づくり」のDNA 下清内路煙火有志会・桜井真紀さん

桜井真紀さん

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 清内路(せいないじ)は、長野県南部にある人口六百人弱の山村です。同県飯田市から車で四十分。二〇〇九年の合併で隣の阿智(あち)村に編入され、「清内路村」はなくなりましたが、十八世紀の享保年間から約三百年続く勇壮かつ繊細な「手づくり花火」(仕掛け花火)が、村人のDNAです。

 幼いころから「清内路で生まれたから花火をやるんだ」と思っていました。下(しも)清内路煙火有志会(原和寛会長、三十八人)会員の父の背中を見て育ち、私も二十代で入りました。「女子だからちょっと…」という意識はなかったかもしれません。二十五年ほど前までゼロだったという女性会員は、今九人です。

 本業は普通の会社員。でも、花火の素人ではないですよ。国家資格を持っています。火薬類取締法に基づく「丙種火薬類製造保安責任者免状」です。火薬の調合から着火までをそこに住む人が全部こなす。私にとって花火は「匠(たくみ)」「誇り」です。

 手順を簡単に。舟形の器具のくぼみに木炭と硫黄、硝石を入れ、円盤状の車輪ですり合わせます。この道具は薬研(やげん)といいます。顔は、炭で真っ黒になります。そして、火薬を詰める竹を切ってきて、ゆでて干します。

 お祭りの前日、その竹筒の中に火薬を詰め、当日の朝、竹筒を仕掛けに取り付けます。さあ着火。緊張します。タイミングとか、ちゃんと火が出るかとか。ルーティンや験をかついだりは、特にないです。神社へ奉納するのですから、事前にみんなでお参りをします。

 少子高齢化が進みます。今、三十八人の平均年齢は三十代中盤。以前はもっと若い人が多かったと聞いていますが、他地域の伝統芸能保存会よりは若いのですね。「DNA」を持っている若者が多いのでしょうか。花火は、第二次大戦中も休まず続いたそうです。清内路と花火の結び付きの強さを感じますね。

 学生時代、岐阜県にいました。卒業後も学校に残りましたが、花火がしたくて清内路に帰ってきました。手づくりは毎年、八月下旬に準備が始まり、十月中旬のお祭り本番まで一カ月半。それが済むと「ああ、今年も終わったんだ」と思います。

 神社の境内が狭いので、大勢の人は見られません。手づくり花火の目的は、神様への「奉納」です。観光ではありません。夢は「メインの仕掛け花火『大三国』を手掛ける」こと。技術を高められるよう、頑張ります。

 (聞き手・小野木昌弘)

 <さくらい・まき> 1987年、長野県生まれ。普段は飯田市の会社勤務。手づくり花火は10月14日に下清内路諏訪・建神社で奉納。上清内路地区の人たちも花火を手作りし、10月6日に奉納。

 

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