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没後100年 生きている漱石

 日本の近代文学を代表する文豪の一人、夏目漱石が亡くなって、九日で百年。転換期にある「時代」と格闘する近代的な「自我」の悲喜劇を描いた作品は今も新しい。漱石とその作品から何が読み取れるか。

 <夏目漱石> 1867(慶応3)年、現在の東京都新宿区に地元の名主の末子として生まれる。本名・金之助。一時養子に出されるなど複雑な幼年期を過ごす。東京帝国大で英文学を学び、英国に留学した。1905年に『吾輩は猫である』を発表して文名が上がり、06年に『坊っちゃん』『草枕』を発表。07年に作家として独立し、『行人』『こころ』『道草』などの傑作を次々と執筆した。16(大正5)年、『明暗』連載中に胃潰瘍で死去した。

◆自分の成長知る指標 政治学者・姜尚中さん

姜尚中さん

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 中学二年の夏休み、仲間三人と東京へ家出しました。一カ月間、世田谷の新聞販売店に転がり込んで。熊本へ帰ってから『三四郎』を読んだら、主人公が熊本から東京へ列車で移動する場面から始まっており、「僕たちと同じだ!」と漱石にのめり込みました。

 読むたびに自分の成長を確かめることができる小説ばかりです。五年後に再び読んで同じ印象しか持たない人は、全く進化していない。茫洋(ぼうよう)とした人生を送っている。人生の節目で読むと、自分を知るバロメーターになります。ある意味恐ろしい。

 例えば、花や水がよく出てきます。一つ一つに象徴的な意義がある。『それから』で、ヒロインが主人公の所で生け花の水を飲んでしまう。最初は分かりませんでしたが、何年か後に読んだら、谷崎潤一郎みたいなぬれ場もないのに、とてもエロチックでした。『門』で、夫と妻が障子一枚隔てて会話します。この障子が「夫婦間の孤独の薄い壁」という思いに達したのは、自分が結婚してからです。

 高度経済成長期は司馬遼太郎のはつらつさが似合いました。デフレの今は、漱石の時代。漱石は「より大きく、速く」という価値観に疑問を呈し『三四郎』では「(日本は)滅びるね」と言わせています。今の問題は、グローバル経済が生んだ格差。漱石の時代も相当な格差社会でした。新興成り金を木っ端みじんにしていますね。『吾輩は猫である』の金田さんとか。『こころ』には「悪人は世の中にいるはずはない。平生は善人。いざという間際に悪人になる…。金さ」という趣旨のせりふ。先を見抜いています。

 トランプ氏がなぜ米大統領に当選したのでしょうか。リベラリズムが無力だったのでは? 若者は「自由に将来を選べ」と言われても何も選べない。自由が苦痛な人もいる。声高に「これをやれ」と言う人がいてほしかったのかも。漱石は、個人と自由の問題を文学の大きなテーマにしていたと思います。

 将来が見えない今、漱石から学べることは幾つかあります。「悲劇は喜劇より偉大である」と書く『虞美人草』を読むと、不幸を通じて深い洞察や人間的な交わりを作り出せるかもと思います。僕が敷衍(ふえん)すると「徹底して悲観的に考え、徹底して楽観的に行動しよう」ということ。漱石は、そうは言っていないけれど、漱石に導かれました。

 (聞き手・小野木昌弘)

 <カン・サンジュン> 1950年、熊本県生まれ。東京大教授、聖学院大学長などを歴任し現在東大名誉教授、東京理科大特命教授、熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。

◆近代化の痛み、普遍に 作家・リービ英雄さん

リービ英雄さん

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 漱石の小説は、欧米の研究者の間では長く、明治の日本が急速な近代化を成し遂げた背景を理解する道具としてよく使われてきました。そのころの社会や文化が、緻密な描写で描かれているからです。でも漱石が聞いたら怒るんじゃないかな。資料としてより、小説としての価値にもっと目を向けなくてはね。

 漱石は、強固な小説の構造と文体によって、非西欧語で文学を書く道を開いたと評されています。実際に彼がいなければ、現代の日本文学はなかったし、私も今、ここにいなかったでしょう。たとえばノーベル文学賞の大江健三郎さんは、漱石の作ったものを最もよく受け継いでいると思います。

 私が漱石作品をよく読んだのは、米プリンストン大に通いながら、年の半分ほど東京に住んでいた二十代初めです。とりわけ強烈な印象が残ったのは後期の作品で、日本型の人間関係を描いた『こころ』のほか、『道草』や『行人』ですね。発表から半世紀以上たっているにもかかわらず、当時の東京の雰囲気がぴったり当てはまると感じたのです。『行人』では主人公が、一人の人間が生きている間に世界が人力車から飛行機まで次々変わることについていけない、という趣旨の告白をする場面があります。急速な近代化に伴う孤独、苦悩が浮かび上がります。伝統に保障される価値観が崩壊した後、人は都会でどう生きるのか。とても普遍的な問題が描かれています。

 こうした近代化の痛みは、世界のどこに住んでいる人も経験せざるを得ないものです。たとえば中国はこの二十年ほどで、経済発展が加速しています。場所によっては、馬に乗りながらスマートフォンで電話をかける人も見かけます。まさに『行人』を思い出させる光景です。日本独自の近代化の姿を描くことで、普遍に到達しているのです。

 実は漱石には個人的にも、奇妙な縁を感じています。私が日本で住んだことがある場所は、漱石ゆかりの街ばかりなのです。しかも今の自宅は、どうも小説『門』に登場する家の敷地内らしいのです。ある作家にそれを指摘されて、どきっとしました。崖の下の日当たりが悪い場所です。日本国外に出かけて帰国した晩などに、こういう都会の影のような部屋で、漱石も書いていたのかもしれないと、ふと存在を意識する時があります。

 (聞き手・中村陽子)

 <りーび・ひでお> 1950年、米カリフォルニア州生まれ。法政大教授。89年から日本に定住。92年に『星条旗の聞こえない部屋』で野間文芸新人賞。『仮の水』で伊藤整文学賞など。

◆文体や作風に多様性 エッセイスト・半藤末利子さん

半藤末利子さん

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 漱石ぐらい努力した人はいないと思います。小学校から、ずばぬけた優等生。頭もいいんでしょうが、養子に出されたり、実家に戻されたり、すったもんだあったのに、よく脇道にそれないで勉強に励みましたね。実家に戻っても、父親も母親も自分のことを認めてない。それでも、母親のことは恋しがっている。素直な人です。だから、曲がらずに育ったんでしょう。

 漱石は一時期、精神的に病んで妻鏡子や私の母、長女筆子たちに暴力を振るいました。それがなければ子煩悩ないい父だったようです。筆子は恐怖が身に染みて、生涯父に懐けませんでした。

 どうして荒れていたのか。母は「病気」の一言でしたが、ロンドン留学時代、大英帝国に失望したからという見方もあります。機械文明が今に人間を滅ぼすと憂慮したと。それもあったと思う。原爆まで生んだ文明の行く末を、漱石は鋭敏な神経で予感していた気がします。

 精神を病んでいたころ、鏡子が「書いているとおとなしいから、書かせてあげて」と高浜虚子に頼んだのが、『吾輩は猫である』が生まれたきっかけ。追い詰められたものから解放されたくて、ユーモアあふれる物を書いた。逆に、深刻じゃないときに『こころ』とか『行人』といった心理のひだに迫る小説を書いた。本当にいろんな面を持った人。文体や作風を一作ごとに変えた作家なんていない。

 私が一番愛着を持っているのは自伝的といわれる『道草』です。母や祖母を思わせる人物が出てきたりして冷淡には読めないということもあるけど、小説の最後が好きなんです。主人公と妻が言い合いになり、妻が赤ちゃんを抱っこしながら「御父さまの仰(おっし)やる事は何だかちつとも分(わか)りやしないわね」って言うでしょ。この夫婦は永遠にこうだろうな、でもこれが夫婦であるという普遍性を感じます。

 なぜ漱石の作品が今も読まれるのか。近代以降、いつの時代にも問題はあって、そのたびに日本は、日本人はどうすべきかという問いが生じる。その答えが漱石を読めば分かるからじゃないですか。漱石が小説を書き始めたのは日露戦争のころ。戦争に勝った結果、日本は「勝利国だ」と大見え切るようになった。それに対し、漱石は「一等国にならなくていいから背伸びしないで、自然を大切にして、平和に生きろ」って言っているんですよね。

 (聞き手・大森雅弥)

 <はんどう・まりこ> 1935年、東京都生まれ。父は漱石門下の作家松岡譲、母は漱石の長女筆子。『漱石の長襦袢(じゅばん)』(文春文庫)など著書多数。近著は『老後に快走!』(PHP文庫)。

 

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