トップ > 特集・連載 > 考える広場 > 記事一覧 > 記事

ここから本文

考える広場

水俣病60年

コラージュ・河内誠

写真

 地震で大被害が出た熊本県。その南端、鹿児島県との県境に人口二万五千の水俣市がある。この漁師町で公害の原点・水俣病が公式確認されてから、あす五月一日で六十年。千八百五十三人の死者を出し、今も大勢が後遺症に苦しむ。水俣病はなぜ起きたか。私たちは今、何を求められているのか。三人に聞いた。

◆不作為の構図は今も 熊本日日新聞社論説主幹・高峰武さん

 水俣病は、食卓から起きた事件です。一家だんらんの食卓で、漁師のじいちゃんが孫に「大きくなれよ」って魚をどんどん食べさせる。その魚に有機水銀が入っていた。猫で実験したら一週間で発病した。それを人間が食べていた。残酷です。

 その水俣病は、二カ所で起きました。まず熊本であって、その後新潟で再び。なぜ一回で収まらなかったか。「不作為の連続」のせいでしょう。特に初期に何もしなかった。政治家も行政も医学も。戦後復興と高度経済成長のゆがみを感じます。

 「排水を止める」「健康被害を調査する」などの対策を怠った政府や産業界を支えたのは、実は市民の意識だった。公式確認から三年たって「(原因企業の)チッソの工場を止めないでくれ」という知事への陳情に、市民が行くんですね。当時、市税の半分はチッソから。市長や市議長や商工会議所が、市民の大多数の賛同で行った。

 被害者の漁民だけが、そのグループに入っていなかった。この構造には「自分の生活を守るためには仕方ない」という市民の気分があったのでは。その後の薬害や福島の原発処理にも「小を犠牲にして多数が安定した生活を望む」という構造として残っていないか。水俣で起きたことが克服されていません。

 マスコミも「不作為」から逃れられないかも。一九五四年八月の熊本日日新聞に、「猫てんかんで全滅」という三段見出しの記事が出ました。「水俣で猫がきりきり舞いして連続死している」と。水俣病の初報です。でも、それから五六年の公式確認まで、続報は出なかった。あの空白の二年間に、突っ込んだ報道があれば、水俣病の歴史は変わったかもしれません。

高峰武さん

写真

 今度の熊本地震と水俣の関係で気になることが。まず、高濃度の水銀ヘドロ百五十一万立方メートルが無処理で水俣湾に埋め立てられている点。「仮置き場」「処理じゃなくて移動」と批判されました。遮蔽(しゃへい)する鋼矢板(こうやいた)の耐用年数は五十年とされましたが、県は「二〇五〇年まで可能」としています。原発の耐用年数延長と構図が似ていませんか。もう一つは、水俣湾に活断層が集中している事実。心配です。

 水俣病は「鏡」です。僕も行政も司法も映る。水俣病を問うのではなく、水俣病から僕らが照らされ、問われている。そんな気持ちがずっとありますね。(聞き手・小野木昌弘)

 <たかみね・たけし> 1952年、熊本県生まれ。水俣病や免田事件などを取材。社会部長、編集局長などを歴任。今年4月に新著『水俣病を知っていますか』(岩波ブックレット)を出版。

◆父と祖父なぜ死んだ 水俣病資料館語り部の会副会長・吉永理巳子さん

 私は今、母と夫と三人で暮らしています。生まれ育った水俣市の浜で、水俣病に出会いました。もともとの家族は八人。そのうち、父と祖父が水俣病で亡くなりました。

 母ミツコ(90)の話です。公式確認の前、一九五四年ごろ、隣のご主人が発病して亡くなった。半年もたたずに、私の父二芳(つぎよし)に同じ症状が。チッソ付属病院のベッドで「手がチリチリしびれる。いっちょうようならん(ちっとも良くならない)」と言っていたそうです。いったん元気になりましたが、五六年九月に再入院。言葉が出なくなり、激しいけいれんで壁にぶつかったり。翌十月に、三十八歳で息を引き取りました。

 一カ月後、祖父の安太(やすた)も言葉が出なくなり、手足は曲がったまま動かなくなりました。ご飯もトイレもふろも自分では無理。九年間寝たきりの末、亡くなりました。七十八歳でした。

吉永理巳子さん

写真

 五九年の年末にチッソから見舞金三十万円が出ました。チッソがまだ原因を認めていないので、補償金じゃありません。父が他界し、祖父も寝たきり。現金収入が乏しく、母には「これで年が越せる」とありがたいお金だったようです。

 当時から八〇年代ごろまでは、水俣病は「嫌な病気」でした。「水俣病は風化して早くなくなってしまえばいい」と思っていました。そんな私が、水俣病に向き合うきっかけになったのは、九四年の「もやい直し」からです。水俣病で壊れてしまった市民の人間関係を(船をつなぐもやいのように)つくり直そうとの運動です。

 その時「水俣の啓示」という本を読みました。「チッソの排水が原因だと早くに分かっていたが、世界の化学工業の発展に水を差すから止めなかった」と書いてありました。その時初めて、父や祖父のことを考えるようになりました。それまでは「大きな声で言えない病気で亡くなった」と疎ましい存在でしたが「水俣病をもっと知りたい」と思うようになり、本を読み、語り部になりました。

 語り部も次の世代への引き継ぎを考えています。それと、水俣病で亡くなった方の顔写真を一軒一軒訪ね歩いて集め、水俣病資料館に展示してもらいました。六十年たっていますから、お孫さん、ひ孫さんの代になって大変でしたが、私たちの世代の責務だと思っています。(聞き手・小野木昌弘)

 <よしなが・りみこ> 1951年、熊本県生まれ。56年、父が急性劇症型の水俣病で死去。9年後に祖父も死亡。97年、水俣市水俣病資料館の語り部に。リグラス工房「びんの風」主宰。

◆汚れた私たち照らす 舞踏家、舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」主宰・麿赤児さん

 舞踏の根っこにはネガティブな面の掘り起こしというのがあり、水俣病とは通底するものがあります。舞踏は表現の幅を広げるために、ぐーっと下まで井戸を掘りました。今までのダンスの概念から外れるようなもの、差別の対象みたいなものにさえ光を当ててきた。裏面といえば裏面だけど、その方がむしろ多数だろうと。しかも悲惨な状況を絵画のように描くのではなく、それを自分で体験しようという。もちろん疑似体験だけれども、どうやったらそこに肉薄できるかを追究してきた。僕の先達の土方巽(ひじかたたつみ)の言葉を借りるなら、病気は先生なんです。

 土方は西洋ダンスの出身ですが、体というものに対する根源的な疑問を持ち「(西洋ダンスのように)伸びやかに踊ってりゃいいもんじゃないだろう」という発想でした。そこには健康な体へのアンチテーゼがありました。だから、神経がうまくつながらないために起きる訳の分からない動きなどに注目した。

 僕も原爆で傷ついた人や、ポンペイの火山爆発で火山灰に埋もれて固まった人たちにインスピレーションを得ました。実は水俣病を直接参考にしたことはありませんが、けいれんなど、患者さんの症状をわれわれが体で表現しているように見えるのも、ある意味当然なんです。

麿赤児さん

写真

 特に、水俣病の患者さんたちは、健全な体でありたいという思いをずばっと断ち切られた。その欠落が私たちの身体観の幅を広げてくれます。二十一世紀の今、「健全な肉体に健全な精神が宿る」なんて、もうありえない。みんな汚れきった体なんだ。そのことを水俣病は、よりはっきりと照射してくれていると思います。

 忘れてならないのは、水俣病が人工的に引き起こされたことへの怒りです。僕は問題発覚当時、「患者に包丁を持たせて、社長に…」なんて過激な妄想をしましたよ。そこでは、産業革命以来の近代のひずみをどう考えるんだということを突きつけられたと思うんだな。それにどう答えるか。舞踏はそういう近代の体制に対するアンチテーゼです。しかも、直接、反体制を唱えずに、暗喩として示したいというのがある。その意味で、舞踏こそが水俣病のはらむ問題を鮮烈に表現しえているのかもしれない。少なくともそれを背負っているつもりです。逆に、それを財産にしてしまった後ろめたさみたいなものもありますが。(聞き手・大森雅弥)

 <まろ・あかじ> 1943年生まれ。奈良県出身。72年に「大駱駝艦」旗揚げ。著書に『怪男児 麿赤兒がゆく』。6月30日から東京・世田谷パブリックシアターで新作「パラダイス」を上演。

 <水俣病> 1956年5月1日、熊本県水俣市の化学工場チッソの付属病院が「原因不明の小児奇病発生」と県に報告。症状は、手足のしびれやけいれん、言語不明瞭など。チッソが水俣湾に流す工場廃水に猛毒の有機水銀が含まれ、汚染魚と知らずに食べた人たちが発症し、胎児にも影響。65年に新潟でも。慰謝料や年金が支給される認定患者は計2280人。症状があっても認定患者になれず「特徴的な症状を持つ人」として95年に1万余人、2009年に3万余人が一時金を受けた。

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索