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考える広場

はじめの一歩

コラージュ・長谷川古美知

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 新年度が始まった。進学、進級、就職…。新鮮な気持ちがふつふつとわき、不安も胸に新環境へ飛び込む。人生の転機をクリアした三人の著名人に、「はじめの一歩」の動機と首尾を聞いた。

◆プラス思考で攻める コメディアン・萩本欽一さん

 七十歳過ぎて、長年続けた東京・明治座の公演をやめた時に、これからの困難は認知症だと思ってさ。どんどん忘れていく、そこへどんどん足していくのはどうだろうって。認知症対策って、マイナスを心配せずに、プラスを考える。それが大学受験のきっかけだった。「あなたはちゃんと覚えてますよ」って、合格のハンコをくれる。このトシで大変だけど、コメディアンらしくっていいじゃない。

 受験勉強始めたけど、覚えられない。十ページ進んでもう一回戻ったら忘れてる。脳が勘弁してくれって。それで、英単語の発音を得意のギャグにできないかなって考えた。英語を日本語にした感じです。

 英単語の「humid」(ヒューミッド=湿った)なんかは、僕に言わせりゃ「ふみちゃん」だ。コントのせりふみたいに「ふみちゃん、カラオケどう?」「失敬するワ」。これで「湿気が多い」ってな具合に覚えられた。受験の後、脳の検査したら、記憶する部分は三十代に戻ったと言われました。

 世間では、認知症をどう予防するかって言うけど、僕は「どう攻めるか」だと思いますね。予防しても、向こうは圧倒的な力で乗り越えてきます。どんどん入れていくこと。すると、脳が喜んで活躍しようとする。

 なぜ駒沢大の仏教学部かというと、講演を頼まれたんです。「僕、大学出じゃないのに?」って聞くと「仏教学部に来てくれたらうれしい」って言われた。僕らの仕事はね「うれしい」って言う所に飛んで行く。そこに運が待っている。

萩本欽一さん

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 昨春“現役”で合格。仏教学は奥が深い。授業はほぼ皆勤。こんな面白いことを四年間で終えちゃっては、つまらない。だから試験だけ行かなかった教科がある。親の金で大学行ってる人は、授業は休んでも試験で帳尻を合わせるのが親孝行。僕は就職の心配しなくていいから。仏教の勉強は八年間やりたい。

 若い友達がたくさんできました。僕がノートを貸してあげる学生がいれば、借りる相手もいる。「二年の授業は欽ちゃんが決めてから自分も決める」っていう子がいます。うれしいね。

 夢はいろいろあります。もっと勉強して、大学院出て、ダメな生徒を教える教官になりたいね。迷える子羊を集めて。教えることが一番勉強になります。四月からの新学期が待ち遠しいなあ。(聞き手・小野木昌弘)

 <はぎもと・きんいち> 1941年、東京都生まれ。高校卒業後浅草で修業し、故坂上二郎さんとの「コント55号」やソロ活動で大活躍。野球の監督も。2015年4月、73歳で駒沢大に入学。

◆社会に尽くす何かを 車いす陸上選手・樋口政幸さん

 二〇〇三年、二十四歳の時にバイクで自損事故を起こし、脊髄損傷で車いす生活になりました。当時は長野県飯山市の農家に住み込みで働き、ランニングなど体を動かすことも好きでした。それが全部できなくなってしまった。家族や他人の世話にならないと生きていけないのかと思うと、つらかったですね。

 リハビリに励む中、出合ったのが車いす陸上です。とはいえ最初はアスリートになるとか、パラリンピックに行くとかは思っていなかった。とにかく速く走りたかったんです。それが〇五年の長野車いすマラソン大会で四位に入り、気持ちが変わりました。実家のある新潟から長野に移り、本格的に練習に打ち込むようになりました。

樋口政幸さん

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 この初めの一歩を踏み出さなければ、今ごろ何をしていたか。これ以外に自分を最大限に表現できる方法は思い付きません。自分にとってアイデンティティー(自己証明)といえるものです。

 といっても、続けることは簡単ではありません。まずは生活していかなければならない。練習時間を確保するために、パート社員の仕事をしたこともあります。競技でも記録が停滞した時期があり、競技を続けるか、あきらめて仕事に専念するか考えたことがありました。

 一二年のロンドン・パラリンピックを機に、また新たな一歩を踏み出しました。マラソンで十三位、八百メートルで予選落ち。練習量では絶対負けないという自信があったのに勝てなかった。痛感したのは、日本人は海外勢に比べて瞬発力に欠けているということ。そこでマラソンを封印してトラックレースに専念することにしました。車いすレースは障害の度合いでクラス分けされていますが、最も競争率が高いT54クラスのトラック競技で日本人は一度も決勝に上がったことがない。世界で通用する初めての日本人選手になりたいと思いました。

 この競技を始めてからいつも思ってきたのは、何か社会に貢献したいということです。僕らは社会に食わせてもらっている存在ですから。でも、誰も見てくれない、知らないでは走るかいがない。海外では、選手がアスリートとして扱われ、パラリンピックなどはテレビで生中継されています。日本でも普通にテレビなどで僕らの競技を見られるようになってほしいと思います。(聞き手・大森雅弥)

 <ひぐち・まさゆき> 1979年、新潟県生まれ。車いす陸上T54クラス800メートル、1500メートルの日本記録を持つ。昨年の国際パラリンピック委員会世界陸上ドーハ大会では、日本選手団主将。

◆常に揺るがぬ気持ち 作家・山口恵以子さん

 私は二十代で漫画家、三十代で脚本家を志しました。年齢的に新人脚本家でのデビューは難しいと考え、小説を書き始めたのが四十代半ば。こう言うと、挫折を繰り返したように聞こえるかもしれませんが、自分の中には「物語を作りたい」という揺るぎない気持ちが常にありました。だから一つの目標がだめでも、スムーズに次の形式に移れたんだと思います。

 「物語を作る」という一本の糸を引っ張り続けた結果として、五十五歳で文学賞をいただくことができました。それ以前の私は、周りから「お金にならない小説なんか書いて、ああいう人にだけはなりたくない」と言われる人間だったはず。そのまま終わる可能性だってあったわけですから、運が良かった。

山口恵以子さん

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 それほどの決意をしたわけではなく、気軽に一歩踏み出してみたら思いがけずラッキー、という体験もありました。たまたま新聞の求人欄を見て応募した食堂での仕事です。十二年勤め、特に最後の二年間は、「こんなにいい仕事はない」というほど幸せな時間を過ごせました。

 でもそう思えたのも、それまでの十年間の苦労があったからなんですね。やはり仕事って苦しく、つらいものです。だからこそお給料をもらえる。最初からお金をもらって好きなことができるとは考えない方がいい。我慢してやっていくうちに、楽しいことが見つかるものだと思います。

 その食堂を二年前に辞め、執筆に専念する生活を始めました。力のある長編小説を書けるのは七十歳までと思ったからです。今は新人作家には厳しい時代で、いつ仕事の依頼が来なくなるかも分かりません。でもリスクなんて考えませんでした。

 人間って、本当にやりたいことがやれれば、たとえ結果がだめでも諦めがつくと思うんです。逆にリスクを考え、出し惜しみして、挑戦しないまま終わったら後悔する。後悔は人の心をむしばむ病です。後悔のないように生きないと、幸せにはなれないと思うんです。

 なんて、偉そうなこと言いましたが、食堂を辞めてからというもの、自堕落で不健康な生活になってしまって…。二日酔いで書けなくって、さらにやけ酒飲んじゃってどうしよう、なんてこともしばしば。この春からジム通いを始めました。反省して、生活を立て直すことにいたします。(聞き手・樋口薫)

 <やまぐち・えいこ> 1958年、東京都生まれ。早稲田大卒。新聞販売店の社員食堂に勤務しながら小説を執筆し、2013年に『月下上海』で松本清張賞を受賞。近著に『風待心中』など。

 <各国の新学期> 最も多いのは米国や英国、ドイツ、フランス、ロシア、中国、キューバなどの9月始まり。世界の7割を占めるという。4月は日本やインドネシアなど少数派。日本の4月新学期は1921(大正10)年からだが、9月新学期が多い各国との留学や学術協力に不都合がある。このため、東京大や京都大、早稲田大、慶応大などは9月入学への移行を検討している。ただ、入試は春のままで、受験生は秋までの半年間をどう過ごすのかなど、課題も多い。

 

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