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あの夏、清原に挑んだ 84年全国高校野球

9回表2死三塁、この試合3本目の本塁打となる2ランを放つPL学園・清原(左)と、ぼうぜんと打球を見送る稲葉・森の享栄バッテリー=1984年8月10日、甲子園球場で

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 夏の全国高校野球選手権大会が今年、百回目を迎える。過去の数々のドラマの中で、ひときわ国民の記憶に刻まれた選手の一人が清原和博(大阪・PL学園)だ。一九八四年八月十日、清原と桑田真澄(いずれも二年)のKKコンビを擁するPLと享栄(愛知)の一回戦。清原が大会記録となる一試合3本塁打を放つなど、PLが14−1で圧勝した。この試合、相対した享栄ナインがどう戦い、敗れたのかをたどった。

 三二度を超える昼下がりの甲子園球場は、KKコンビを見ようと外野席まで埋め尽くされた。

 三回、PLの攻撃。1死一塁で打席には一回に右前先制打の清原。フルカウントとなり、享栄のエース村田忍(三年)は考えた。

 「四球でもいい。際(きわ)のコースを振ってくれれば」

 村田の球は速くはないが、ストライクゾーンを幅広く使える制球力がある。全七試合をほぼ一人で投げ抜いた愛知大会は、すべて3失点以内。だがこの試合は二回までに3失点。清原のこの打席では、ファウルとなったが内角の直球を三塁線に痛烈にはじき返され、追い詰められていた。

 捕手の森隆志(二年)。

 「長打が怖くて、内角は投げられない」

 外角高めの直球。当たったのはバットの先だったが、打球は滞空時間の長い放物線を描いて右翼ラッキーゾーンへ。投げるコースを狭められ、結果、ひと振りで仕留められた。

 村田は身長一七五センチで細身。入部時に二十人いた投手希望者の一人にすぎなかった。選手をおんぶし、石段が百段以上あるランニングコースを毎日走る。仲間が次々に脱落する中、清原と同じ一八六センチある主砲安田秀之(二年)を背負い、必ずやりきるのが村田だった。

 そんな努力を人一倍重ねてきたエースに襲いかかるPL打線。遊撃手の加藤仁(三年)は、村田のうつろな表情が目にとまった。

 「目こそ開いていたが、意識がないように見えた」

 五回の守備に入ろうと村田がベンチで準備を始めた時、監督の柴垣旭延が告げた。「もうええぞ」

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 五回にマウンドに上がった二番手の稲葉太(三年)。恵まれた体格からの速球が武器。二年秋の新チーム結成時は背番号「1」だったが、春に村田にその座を奪われ、忸怩(じくじ)たる思いがあった。村田がめった打ちにされるのを見て、監督に「僕を使ってください」と何度もアピールした。

 「俺が一番だと思っていましたから」

 だが、自信は打ち砕かれる。六回の清原の第四打席。高めのカーブを左翼席にたたき込まれた。再び清原が打席に立つ八回、仲間に告げた。「どこに投げても打たれる。ぶつけるわ」

 「ぶつけるぐらいのつもりで、内角で勝負するしかなかった。手も足も出ず打たれ続けることに耐えられなかった。しかし引き下がるわけにはいかない。意地もあった」

 初球の真っすぐは清原の脇腹に当たった。稲葉が帽子を取る。清原は笑って一塁に向かった。思いを見透かされたかのようだった。

 九回、清原に対して再び勝負に出た。二球目のカーブに鋭い金属音が響いた。稲葉は、青空に向かってぐんぐん伸び、左中間席に吸い込まれていく打球を見て思った。「完敗だ」

 あれから三十四年。稲葉は今、思う。

 「清原君が打ったことで、この試合が多くの人の記憶に残る。それは何千、何万の球児ができなかったこと。感謝していますよ」

◆良い思い出になった

 <享栄の監督だった柴垣旭延さん(76)の話> 清原君はスイングだけ見るとそこまですごいとは思わなかったが、実際には球が軽々と飛んでいった。うちは七回1死まで無安打。「このままでは愛知に戻れん」が正直な気持ちだった。清原、桑田の傑出した二人がいたPLは最高のチーム。対戦できて良い思い出になった。

1984年全国高校野球選手権の享栄戦で、1試合3本塁打を放ったPL学園の清原和博のスコア

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◆球児たちは今

 「西の清原、東の安田」。PL戦の数日前の新聞記事。清原と同じ二年生で、享栄の四番だった安田秀之(51)の自慢だ。

 翌年のプロ野球ドラフト会議。六球団から一位指名を受けた清原のテレビ中継が終わったころ、安田は南海(現ソフトバンク)に六位指名された。その後、四年かけて一軍に上がった時、西武の清原はスーパースターになっていた。

 ただ、甲子園での対戦は覚えてくれていた。塁に出ると、一塁手の清原が「おまえ顔でかいな」と言ってきた。「おまえの方がでかいわ」と笑い合った。

 安田はその後、日本ハム、中日でプレー。通算8本塁打。通算525本塁打の清原より八年早く二〇〇〇年に引退し、今は中日のスコアラーを務める。時折、周囲にPL戦を話題にすると「ああ、ホームラン三本の試合な」と返ってくる。

 「負けたから悔しいですけどね。でもみんな覚えている。PLと対戦できて本当に良かった」

 エースの村田忍(51)は複数の大学からの誘いを断り、一般試験で自動車部品メーカーのデンソーに就職した。

 西武と巨人が戦った一九八七年十一月の日本シリーズ。西武の三勝二敗で迎えた第六戦を自宅のテレビで見た。西武があと1死で日本一という場面。清原が感極まり涙を流していた。

 年が明け、二十一歳の村田は一人、阪急(現オリックス)の入団テストを受けた。偽名での登録。一次テストに合格し、二次テストを終えた後、球団担当者に「次の試験には来ません」と告げた。

 「十八歳でまみえた怪物たちと、比べてみたい自分がいたのかな」

 今、少年野球チームの監督を務めるが、清原と対戦したことを子どもたちに話すことはない。

少年野球チームで子どもたちを指導する村田忍さん(右)=愛知県知立市で

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 「少年野球は努力をすれば楽しいし、うまくなれる。しかし清原たちのいる世界は結果を出し続けないといけない。それは自分の中では違うものだから」

 二番手投手の稲葉太(51)は、社会人野球のトヨタ自動車に入ったが、五年で退社。四十二歳の時、産廃処理会社を起こした。

 ひたすら営業先を回る生活。ただ、清原の試合は時々テレビで見た。野球で一流に上り詰めた清原を見て、「自分も一流になる」と心に決めた。事業が軌道に乗った頃、覚せい剤取締法違反で清原が逮捕された。

 自らの半生で、大きな存在だった清原。今でも稲葉は「戦友」と思っている。

 

◆試合経過

 PLは一回、清原の右前打で先制。三回には清原の2点本塁打などで4点を挙げた。清原は六回にソロ本塁打、九回にも2点本塁打を放った。PLは毎回安打、先発全員安打の計18安打だった。

 享栄は八回に1点を返したが、PLの先発桑田に11奪三振を喫した。

 清原の1試合個人3本塁打は、2005年の平田良介(大阪桐蔭、現中日)と並ぶ大会記録。PLの1試合チーム4本塁打は、当時の大会記録だ。

 <第66回全国高校野球選手権大会(1984年)> 夏連覇を目指したPLは、決勝で取手二(茨城)に敗れた。大会本塁打数は47本で、それまでの大会記録32本を大きく上回った。プロ野球の横浜(現DeNA)や米大リーグ・マリナーズで活躍した佐々木主浩(宮城・東北)らも出場した。

 (安福晋一郎、文中敬称略)

 

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