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<ニュースを問う>ムハマド・アリの民主主義 初めは「たった一人」の抵抗

来日時に撮影したムハマド・アリの写真を懐かしむ石川文洋さん

写真

 数十センチの至近距離でバシャッとやったとき、ムハマド・アリ(ボクシング元ヘビー級王者、六月三日死去、享年七十四)は怒るどころかウインクを返した。

 「おまえのことは、分かってるよ」

 戦場カメラマンの石川文洋(ぶんよう)さん(78)=長野県諏訪市=は、そんな無言のメッセージを感じ取った。ベトナム戦争での徴兵拒否でタイトルを剥奪され、一九七二年に復帰戦のため来日したアリに密着したときのことだ。

 思い当たることがあった。会った初日に渡した写真集「戦争と民衆」。米軍ヘリの機銃掃射に逃げ惑う子どもやお年寄り。ナパーム弾に家を焼かれ、わが子が残る家を見詰める母親の絶望のまなざし。ベトナムで、憤りに震えながらシャッターを押した不正義の証拠を「見てくれたんだな」と思った。

 時は、その五年前にさかのぼる。

 六七年、兵役拒否でアリに有罪判決。

 「英雄が一夜にして国賊になった」。石川さんは、そのニュースをサイゴン(現ホーチミン)で知った。黒人大リーガーの先駆者ジャッキー・ロビンソンさえ「彼は前線で戦う黒人の士気を下げている」と非難した。味方のない“たった一人”だった。

◆「間違った戦争」

 戦場の石川さんは「俺とベトコン(南ベトナム解放民族戦線)とに争いごとは何もない」というアリの訴えに心を打たれた。最前線での取材を始めてすぐに「この戦争は間違っている」と思ったからだ。

 「現場に行けば分かる。米軍は農村を攻撃していた。農民に支持されない戦争は間違っています」

 もう一つの訴えもストレートに響いた。

 「白人が黒人を戦地に送っている」

 戦地の石川さんにも、奇妙な実感があった。「危険な前線に行くほど黒人が目立つ」。なぜなのか、取材するうちに分かってきた。

 「全員が最前線で戦っているわけじゃない。一個師団だと、戦場に行くのは半分もいない。情報とか人事とか、いろんな課がありますから。そこに選ばれない人は戦場に。差別で教育を受けられない本国の状況が直接ベトナムに出ているな、と私は見ていた」

 四年の戦場取材を終え六八年、石川さんは帰国した。

 七一年、米連邦最高裁がアリの有罪判決を破棄。

 七二年、アリが来日。

 密着した石川さんの関心は一つ。なぜ、アリには遠いベトナムの真実が見えたのか。十日間で撮影した写真は千枚に及んだ。

 「撮っていれば分かりますよ、どんな人間か。ほら、ファンの子どもを抱き上げた彼の表情を見て。本当にやさしい目です。撮るほどに尊敬の気持ちが高まりましたね。だから千枚も撮ることができたんです」

 そして気づいた。

 「あのやさしさが彼の強さなんですよね。だから、彼には分かったんです。ベトナムの最前線で何が起きているのか。多くの人が分からない段階で」

 七四年、ザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサでアリがヘビー級王者に返り咲く。

 七五年、ベトナム戦争終結。

 後に、アリはこう語る。

 「俺がやった抵抗は、黒人だけでなく、すべての人が考えるべき抵抗だったんだ。黒人だけが徴兵されたわけじゃないからね。金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く、というシステムを政府は作っていたんだ」「俺がやったことは自分のためだったが、それはすべての人がやるべき決断だったんだ」「俺はヴェトナムで人々が無益に死んでいるのを知って、自分が正しいと思うことに従って生きるべきだと思ったんだ」(トマス・ハウザー著「モハメド・アリ その生と時代」から)

◆遠い最前線 沖縄

 石川さんは、ベトナム戦争で米軍の出撃基地になった沖縄で生まれた。

 「安倍さん(首相)が進める集団的自衛権の話では、沖縄が標的になる可能性に触れませんね。そういうところに視点のない人たちの主張だな、と感じます。沖縄は最前線です。私が相手の司令官なら真っ先に攻撃する。軍隊は抑止力にはなりません。戦争の実態を知らない人たちの主張だと思っています」

 弱いところに押しつけられた不条理は、いずれすべての人々に降りかかる。だが、悲しいかな、多くの人は遠い“最前線”を理解し想像することができず、沈黙する。

 「沖縄は遠い。そのことを安倍さんたちはよく分かっているんですよ」

 アリが示した、たった一人の抵抗から半世紀。一人に一票が託された選挙は、何を示すことになるのだろうか。

(編集委員・秦融)

 

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