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生活部記者の両親ダブル介護

(14)母たちの戦争体験 疎開先から見た空襲

母の瞳。72年前、ここには燃える鹿児島市の炎が映っていました

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 年寄りの話は聞くものだ。その記憶が断片になってしまったとしても、いろいろ突き合わせれば、何かが見えてくる。

 母(81)が自分の手で食べられるようになった報告がてら、鹿児島市に住む母の姉、つまり私の伯母に電話する。母に戦争の話を聞いたこと、認知症で断片的な話しか聞けなかったことも伝える。母より二つ年上の伯母に問う。「母が食べていたという『くちゃくちゃしたもの』って何ですか?」「くちゃくちゃ? ああ、それは茎よ。サツマイモの茎」

 サツマイモはその名の通り鹿児島が大産地のはず。なのに、鹿児島の子がイモも食べられず、茎を食べていたとは。重ねて問う。「疎開はしたんですか」「したよ。お父さんの同僚のつてで『吉野』という所に家を借りて」。グーグルマップで鹿児島市街の北東十五キロ辺りの郊外にその地名を発見する。「空襲がひどくなって、終戦までの二カ月くらいいたんだよ」

 戦史を開く。本土南端の鹿児島には、本土上陸作戦に向け、米軍は特に念入りに空襲を繰り返したとある。最初は基地に。続いて市街へ。一九四五年四月二十一日の空襲で米軍は約二百発の爆弾を投下。不発弾が多いなと油断していると、時間を置いて次々爆発した。アニメ映画「この世界の片隅に」にも出てくる時限爆弾だ。「いつ爆発するか分からず、神経的に相当の打撃だった」と戦史はつづる。

 そして同年六月十七日の大空襲。「疎開先からも空が真っ赤になってるのを見たんだよ。あんたのお母さんも一緒に見たんだよ」と伯母。そうか。そんな中を生き抜いてくれたのか。母は。

(三浦耕喜)

 

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