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あの人に迫る

梶田隆章 ノーベル物理学賞受賞、東京大宇宙線研究所所長

写真・市川和宏

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◆若手が力出せる研究環境整えよ 

 宇宙の成り立ちや物質の起源を解明する鍵と考えられている素粒子ニュートリノ。東京大宇宙線研究所の梶田隆章所長(59)は、長年その性質が謎に包まれていたニュートリノに重さがあることを発見し、素粒子物理学を大きく発展させた。ノーベル物理学賞の受賞から三年、多忙な日々を送る梶田さんに、これまでの道のりや、日本の自然科学研究の見通しを聞いた。

 −どんな幼少期、青年時代を過ごされましたか。

 田舎に生まれて、のんびりと過ごしました。三人兄弟の長男で、静かでおとなしい子だったと思います。小学生向けの歴史の本を読んだり、「巨人の星」とかアニメも見たりしていました。家が農家で、田植えや牛の水やりを手伝ったこともあります。

 高校に入りたての成績は四百五人中二百五十番くらい。物理はできたと思いますが、古文や漢文はひどい点数でした。高校で弓を始めました。当時はひょろひょろで背が低く体力勝負じゃだめだろうなと思って始めたんですが、高校で二十センチ伸びて一八三センチになりました。やってみたら意外と面白くて。大学も弓道部で毎日練習していました。三十歳すぎまで続けましたが、肺炎で入院してからやってないですね。今でも弓を引きたいなと思います。

 −東大大学院で小柴昌俊さんの研究室に入ったきっかけは。

 大学では物理学科にいて、物理の考え方は面白いなと。たとえばアインシュタインの一般相対性理論。そこに至るまでにアインシュタインが重力をどう考えたかという思考の過程が面白かったですね。大学院に入る前に、きっかけは覚えてないですが、素粒子に興味がありました。宇宙というよりは素粒子でした。今と違って、一九八〇年代ころっていうのは、宇宙と素粒子は離れたイメージだったんですね。どの研究室が何をやっているか募集要項に一、二行書いてあって、それで小柴先生のところを志望しました。「電子・陽電子衝突型実験を行う」みたいな内容だったと思います。ビビっと来たわけではないんですけど、素粒子の実験だったので。結局その方向の実験はやっていないですが。

 −岐阜県・神岡町でのカミオカンデ建設の日々は。

 楽しかったですね。飛騨の山奥なんか行ったことなかったし、冬はすごい雪で大変でしたけど、そういうことも含めて楽しかった。

 鉱山の中へは今は自動車で入りますけど、当時は鉱山の小さい列車で鉱山の人たちと一緒に入って作業しました。朝の七時十分ごろから夕方まで。カミオカンデはもともと陽子の崩壊を探る目的だったんですけど、とても重要な実験なので、われわれも非常に興奮していました。当時は鉱山のアパートに寝泊まりしていて、夜は研究者仲間とお酒を飲みながらどういうことをやろうとか話し合うのは大変有益でした。

 −ノーベル賞の功績となったニュートリノ振動の発見について教えてください。最終的に一九九八年に同県高山市であったニュートリノ国際会議で発表されるまで十年以上かかっていますが、長くなかったですか。

 残念ながら陽子崩壊は見つかっていませんが、陽子崩壊を探す上で区別しなければならないのが、宇宙線が大気中の原子核にぶつかったときにできる大気ニュートリノなんですね。八六年ごろ、解析用のソフトウエアを改良して試験していたところ、たまたま大気ニュートリノのうちの特にミューという種類が予想よりも随分少ないことが分かりました。そこから、大気ニュートリノに関する研究を始めました。これは一体何なんだろう、この問題を中途半端に放っておけないという思いでした。

 それをきちんと時間がかかってもいいからやったということだと思います。あと、九八年のころ、ニュートリノのデータ解析は数十人のチームでやっていたので、皆さんの力の結集でもあります。データを集める上で、スーパーカミオカンデはやっぱり必要でした。

 十年をそれほど長いとは思いません。たとえば太陽ニュートリノの問題は、発覚したのが六〇年代後半で、それがニュートリノ振動と確定したのが二〇〇一年ですから、こちらは三十数年かかっています。それに比べれば十年は早いです。

 −ノーベル賞を受賞して生活に変化は。趣味の時間はあるのでしょうか。

 忙しくなりました。毎日スケジュールに追われている感じです。講演や研究者の会議が多いです。富山市の自宅に帰れるのは平均して月に一、二回ですね。

 趣味はないです、無理ですよ。あえて言うならお酒でも飲んでいることでしょうかね。ビール、ワイン、日本酒、何でも飲みます。それ以外の強いお酒も。例を挙げればグラッパ。ストレートで飲んでいます。毎晩は飲まないようには気を付けているんですけどね。

 −研究者を取り巻く環境の変化、若手研究者の置かれた状況など、どのように考えられていますか。

 日本の研究環境は今、非常に疲弊していて、これをそのままにしていては絶対にいけないと思います。特に若手の方がなかなか定年まで首にならない終身的な職に就けないのが、いちばん大きい問題です。任期付きで四十歳くらいまでやっている人の方がはるかに多くなってしまった。

 研究者がいちばん画期的な研究ができるのは、データから見ると三十代とか若い年齢です。今はその年齢層が誰かに雇用され、その先生の言う研究をやる、それも特任教員とかで短くて二年、長くて五年など期間が区切られている。若い人たちの研究力がまったく使えていない状態です。

 なんでこんなことが起こったかというと、国立大学の運営費交付金という、教員の給料を支えている部分を毎年1%ずつ落としてきたことで、そのしわ寄せが若い人のポストをどんどん減らしていくことになっています。私が思うには小手先ではやりようがなく、国立大学の全体の予算が増えない限りどうしようもないんじゃないでしょうか。

 −基礎科学の意義は。

 基礎科学は、何が出るのか分からないところに水をあげるということです。将来日本の研究の芽をきちんと出すという意味で、基礎科学の研究は常にきちんと支えていく必要があるのではないかと思います。

 今は若い世代が下請けの研究になってしまっている。首になる日が分かっていて、次のポジションを狙わないといけないので、その間にとにかく質より量で論文を単に頑張って書くという状況です。こんな状況では今までのようにノーベル賞が多数出てくることはあまり考えられません。

 −科学を学ぶ子どもへメッセージをお願いします。

 日本は長い目で見れば基礎科学研究でしっかりした成果を出してきた国ですので、若い皆さんがもし研究をやりたいなら、積極的に参加してもらいたいと願っています。明日の生活の改善のために役立つ研究もありますが、研究者一人一人のこれを知りたい、世の中どうなっているんだろう、そういう純粋な好奇心からやる研究もあります。皆さんが不思議と思うことについて研究してもらっていいんじゃないかと思います。大切なのは、不思議と思う心を忘れないことじゃないでしょうか。

 <かじた・たかあき> 1959年、埼玉県東松山市生まれ。県立川越高、埼玉大理学部卒業、東京大大学院博士課程修了。岐阜県飛騨市神岡町の神岡鉱山内に建設された素粒子ニュートリノ観測装置「カミオカンデ」と後継機「スーパーカミオカンデ」の実験に参加。それまで重さがないと考えられていたニュートリノに質量があることを示す「ニュートリノ振動」を発見し、98年に国際会議で発表した。

 2015年にノーベル物理学賞を受賞。99年から東京大宇宙線研究所教授、08年から同研究所所長。同大特別栄誉教授、同大卓越教授。自宅は富山市。1男1女の父。

◆あなたに伝えたい

 日本の研究環境は今、非常に疲弊していて、これをそのままにしていては絶対にいけないと思います。

◆インタビューを終えて

 カミオカンデで研究が始まった当初、大気ニュートリノは、主目的だった「陽子崩壊」の信号を捉えるために区別しなければならない“ノイズ”(排除すべきデータ)だった。その大気ニュートリノの理論値と違う異変に気付いた梶田さんによって、ノイズは主役に。「予測していないことに出くわしたときに、そういうことに出合っていることをきちんと認識することが大切なんだと思います」

 データに実直に向き合う姿勢、十年をものともしない粘り強さが成し遂げた偉業だったのだと感じた。穏やかな話しぶりの梶田さんが、若手研究者の置かれた環境に警鐘を鳴らすとき、その強い口調が印象に残った。

 (浜崎陽介)

 

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