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あの人に迫る

原雄一 警視庁捜査1課元刑事

写真・内山田正夫

写真

◆長官狙撃の真相 闇に葬らせない

 一九九五年三月、国松孝次警察庁長官が狙撃され、瀕死(ひんし)の重傷を負った。警視庁公安部はオウム真理教の組織的な犯罪として、在家信者だった元巡査長らの立件に熱意を燃やした。その陰で、全く別の容疑者を追い続けた刑事がいた。原雄一さん(62)。長く封印されてきた捜査の全貌が今春、一冊の本を通じて世に出た。タイトルは「宿命」。警察組織は何に翻弄(ほんろう)され、元刑事の宿命とは何だったのか。

 −初めて捜査に関わったのは。

 事件発生の翌年、捜査一課から南千住署に異動になりました。長官狙撃事件の特別捜査本部が置かれていた署です。秋ごろには、警視庁公安部が教団信者だった元巡査長を取り調べていた。「私が撃った。拳銃を神田川に捨てた」という供述もあってね。署員が、毎日川ざらいしてどろどろになって署に帰っていて、少し同情していました。時代の流れからすると、オウム真理教の犯行であろう、と。でも、それを裏付ける証言や証拠がいっこうに何にも出てこない。「本当にオウムでいいのかな」と、疑問が生じていたのは確かです。

 −その後の捜査は。

 二〇〇〇年に二度目の捜査一課に配属となり、東村山署の警察官殺人事件の捜査を担当することになりました。その時、一課内の現場資料班(他県警と連携する係)に、「多摩地区に土地勘、拳銃の前歴があり、警察官に恨みがある、の条件に合致する人物がいたら連絡がほしい」と言ってあり、偶然にもヒットしましてね。当時、愛知県警が捜査していたUFJ銀行支店の現金輸送車襲撃事件の被疑者でした。

 名は中村泰(ひろし)(受刑者、強盗殺人未遂罪などで岐阜刑務所に服役中)。一九三〇(昭和五)年に生まれ、幼少期を中国・大連で過ごし、戦後に東京大理科二類に進学したものの中退。五六年に東京都武蔵野市の路上で職務質問した警察官を拳銃で射殺し、服役した前科がある、そんな人物です。英語、中国語、スペイン語に精通していましたね。当時、大阪でも現金輸送車襲撃事件があり、警視庁、愛知県警、大阪府警で捜査が進んでいきました。

 −長官狙撃事件の容疑者と感じたのは。

 〇三年七月に三都府県警で、三重県名張市の彼のアジトを捜索した時です。長官狙撃事件に関する新聞記事や雑誌の切り抜きがわんさか出てきた。自身が犯行に及んだことを打ち明けた詩も、フロッピーディスクに保存していました。とんでもないホシ(犯人)にぶち当たったかも、と思いました。一方で、オウム真理教かもしれないと半信半疑。捜査すればするほど、自分が捜査する男が犯人であってほしいと、のめり込んでしまいがちですが、意識的に自制しました。

 −中村容疑者(当時)への捜査が進む一方、〇四年七月、警視庁は教団信者の元巡査長ら四人をついに逮捕した。

 当時の捜査一課長から、「中村(容疑者)の様子を見てこい」と指示がありましてね。当時勾留されていた大阪府警本部に向かいました。府警の捜査員が中村容疑者に「『恋人』が来てはるで」と声をかけてくれました。中村容疑者の方から「新聞社が(長官狙撃事件で教団信者を逮捕するという)飛ばし記事を書いていましたね」と話を向けてきました。だからこちらも訥々(とつとつ)と、「それ、本当だよ」と。彼は絶句でしたね。言葉が何も出てこない。直感で、「本当のことを言っているな」という感触を受けました。「(公安部は)結末がつけられないでしょう」って。「刑事部幹部に何か話をしておきますか」と話を向けたら、「ちょっと考えさせてください」って。そして、当日の公用車の状況や狙撃後の警察官の配置など、容疑者しか知り得ない秘密を四つほど暴露しました。「必ず裏が取れます。これで刑事部幹部も安心して眠れるでしょう」と。実際に捜査を進めると、裏が取れたのです。

 −四人は不起訴でした。

 中村容疑者の捜査は続けました。当初は続けよ、との指示もありましたが、幹部によっては、廊下ですれ違いざまに「ホームの端に立つなよ」とオウムに絞り込んだ公安部との対立を警戒する言い方もしました。でも刑事は、事実を究明していくことが一番の仕事です。証拠なり供述なりの事実を積み上げていけば、適切に判断され、必ず解明されると信じていました。

 ただ、それも、だんだん苦しくなりました。時の組織の方針で、捜査のあり方が右から左へ極端に変わりました。ある幹部は「(中村容疑者への捜査を)続けよ」、ある幹部は「やめよ」と。結局〇五年二月に捜査は終結し、それ以降は、全く捜査継続の指示はありませんでした。

 −だが〇八年、矢代隆義警視総監らが中村容疑者の捜査再開を指示した。

 「捜査一課の五人、公安の捜査員五人。混成チームで捜査を継続したい」と警視総監にお願いしました。かなり珍しいと思います。捜査をさらに進めるには、私とは対極の視点が不可欠だと考え、公安部の捜査員にも加わってもらいました。中村容疑者の取り調べ、証拠品の分析や米国での捜査などで立件を目指しました。

 −結局、警視庁公安部は一〇年三月三十日の時効成立の際、長官狙撃事件を「オウム真理教のテロ」と結論付けた。どんな思いで時効を迎えたか。

 私は時効の際の会見に出ていませんが、中村容疑者の捜査については語られなかったと聞いています。立件できなかったむなしさはありましたが、「やっと解放される」との安堵(あんど)感の方が強かった。でも、なぜ、警察はあれほどまでにオウム真理教に固執しなければならなかったのか。今でも一番思いますし、その理由を知りたい。あの時、警察で何が起き、どういう捜査があったのか。歴史に残していくべきだと思うようになった。本を書いた思いの源流です。実際には、このような捜査もやっていたんだということを示したかった。死ぬ時に、後悔したくないと思いました。

 −長官狙撃事件が解決しない理由について、当時の米村敏朗警視総監から「公安部が捜査しているからだ」と言われたそうですね。どういう意味なのでしょう。

 わかりません。明快な答えは教えてもらえませんでした。公安部がどういう捜査をしているか、全くわかりませんでしたしね。

 −麻原彰晃元死刑囚の逮捕の場面にも立ちあった。刑事にとって、オウム真理教とは。

 悪魔の宗教だったと思います。麻原は従順で優秀な子どもたち、若者たちを本当に悪い方向に導いた。

 −地下鉄サリン事件を起こせるほどに成長させた責任の一端は警察にもある。長官狙撃事件もそんな「悪魔」のせいにして葬りたい意識があったのでは。

 …(しばしの沈黙の後)オウム真理教のせいにしたいということはなかったと思います。ただ、時効会見の後、公安部参事官は「本当に申し訳ありませんでした」って頭を下げました。公安部長は多摩地域にあった捜査拠点にわざわざ訪れ、「みんなの気持ちはよく分かっている」と疲労困憊(こんぱい)した表情でおっしゃいました。

 最初からオウムの線で捜査していましたから、路線変更はできなかったということでしょうか。警察の側に、何か「呪縛」があったのでしょうか。

 <はら・ゆういち> 1956年生まれ、東京都出身。中央大法学部卒。民間企業勤務を経て、1980年警視庁警察官に。機動捜査隊、警視庁捜査1課などに配属された。95年3月のオウム真理教の教団施設への一斉捜査や、5月の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚の逮捕時にも最前線で関わった。96年3月に警察庁長官狙撃事件の特別捜査本部が置かれていた南千住署に異動。その後、捜査1課に戻り、現役警察官が殺害された東村山署管内の殺人事件など、凶悪事件や未解決事件の捜査に従事した。元信者の高橋克也受刑者ら特別手配の最後の3人が逮捕された2012年当時も捜査1課理事官だった。16年9月に警視庁を退職。現在は、情報通信関連の企業に勤務する。

◆あなたに伝えたい

 最初からオウムの線で捜査していましたから、路線変更はできなかったということでしょうか。

◆インタビューを終えて

 公安警察に挑み続けた、一介の刑事だった。組織が出した結論とは別に、淡々と捜査の過程を紡いだ。事実の重さは、結果的に組織への静かな異議申し立てとなり、読む人の心を捉えた。「宿命」(講談社)が共感を呼ぶ理由だろう。

 今年七月、オウム真理教の教団元幹部十三人の死刑が執行された。こちらも多くの謎を残したままの幕引きになった。

 沈殿した「時代のヘドロ」は、小石ほどの何かの拍子で再び沸き上がり、また社会にまん延する。社会は決してクリーンではないと、あらためて思う。原さんも、似た不安を感じながらじっと社会を見つめている。

 (木原育子)

 

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