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あの人に迫る

ホームズ恵子 元英兵捕虜の支援者  

写真・阿部伸哉

写真

◆憎むべきは戦争 和解を深めたい

 戦後処理の問題といえばアジアとの関係に目が向きがち。しかし映画「戦場にかける橋」(一九五七年)に代表されるように、旧日本軍による東南アジアでの英兵捕虜の強制労働は英国民に「虐待」として記憶に刻まれている。まだ反日感情が強かった三十年前、英国在住のホームズ恵子さん(70)は元捕虜らを日本に招く活動を開始。日英の戦後に正面からぶつかってきた思いを聞いた。

 −英国との最初のつながりを教えてください。

 高校卒業まで三重県の熊野。外国人はほとんど見たことがなかったです。高校卒業後、父にお願いして東京の語学学校に通いました。そのころに知り合った英国人男性と結婚し、英国に移り住むことになりました。一九七九年のことです。

 しかしその五年後、夫が飛行機事故で亡くなりました。それまで夫に頼り切りの生活でしたから、絶望でしたよ。長男が十三歳、次男が十歳で、私だけでは宿題の手伝いもできない。子どもを寄宿舎制の学校に入れ、私は八八年に一時、熊野に帰ったんです。

 −なぜ元英兵捕虜に関心を持つように。

 実は熊野の入鹿(いるか)という地区に元英兵捕虜の慰霊碑があり、戦時中は銅山で捕虜を働かせていました。英国に移り住む前、母と行ったことがありました。夫が亡くなり、「あそこに行きたい」と無性に思うようになったんです。

 久々に訪ねると、昔は石積みと十字架の素朴な碑だったのが、新しく立派な慰霊碑に替わっていました。過疎の集落ですが、お年寄りがきれいに清掃しています。碑文には、入鹿で亡くなった英兵十六人の名前と、強制労働の経緯が書いてあり、それを見てとっさに「この人たちの母親を捜さなくては」と思いました。大切に葬られていると伝えたかったんです。

 入鹿には、過酷な労働で知られるタイ・ビルマ(現ミャンマー)国境の「泰緬(たいめん)鉄道」建設を経験した英兵三百人が来ていたようです。勤労動員の日本人の若者たちは、捕虜なのに胸を張って銅山に行進して入っていく英兵に敬意を抱き、英語と日本語を教え合ったり、蒸しパンを分け合ったりしていたそうです。

 −遺族とはすぐに連絡が取れましたか。

 一年ぐらいたって、母が市役所を通し、入鹿にいた元捕虜の連絡先を見つけてくれました。ジョー・カミングスさんという方で、手紙を送ったら「こんなにすばらしい慰霊碑を造ってくれてありがとう」と返事が来ました。ジョーを通じて、当時、英国に七十三カ所あった元捕虜の組織に連絡を取ってもらったが、みんな「残酷な日本人がこんなことするわけがない」という拒否反応です。結論を言うと、入鹿で亡くなった十六人の母親には一人も会えませんでした。

 −しかし最終的には和解の旅を計画し、元捕虜や家族を日本に招くことになります。どうやって説得したのですか。

 九一年十月五日のことです。ジョーからロンドンで旧日本軍による捕虜経験者の全国大会があると聞き、私は一人で行くことにしました。知人からは「絶対に行くな」と止められました。「They will eat you alive.(生きたまま餌食にされるぞ)」と。

 −どうなりましたか。

 中に入り、元捕虜の人たちに「あなたたちの思いを日本人に伝えたい」と話しかけました。もう憎しみのるつぼでしたね。

 「何しに来た」「日本人は大嫌いだ、出て行け」「だれが日本人に会うか」「日本人は戦時中のことを何も学校で教えていない」

 キリスト教徒の私は、罵声を浴びながらひたすら祈り、自分に言い聞かせました。「神は憎しみを持った人たちを非常に大切にしている」と。「今の日本を見てもらうことが、彼らのいやしになる」と決心が強まりました。個別に会うと、かたくなな人ばかりではないんです。ジョーの紹介で、入鹿にいた元捕虜五人ほどを訪ねましたが、最初は「会わない」と言っていた人が「カム・イン」と歓迎してくれたりします。

 本人より、息子や娘が日本に厳しいこともよくあります。「父が戦争で別人になってしまった」「理不尽に殺された」という理由です。本人は日本軍に殴る、蹴るの仕打ちを受けながらも、日本人とのいい思い出もあったりするんです。

 −九二年に元捕虜が最初に日本に行くことになりますね。

 最初は五人ぐらい参加者があるかな、と思っていたのですが、希望者は予想を超えて四十人ほどにもなりました。最終的な参加者は二十六人でしたが、それでも予想外に多かった。慌てて企業を回り、ぎりぎりまで支援をお願いしました。

 元英兵には手記や詩を寄せてもらい、日本語訳を付けた冊子をワープロで手打ちして作りました。詩には「通訳のサトウ」「炭鉱仲間のオオクボさん」と個人名も出てきます。「ジャップ(日本人への蔑称)はニンジン全部食べ、おれたちゃ葉っぱをいただいた」など、彼らは当時をはっきりと覚えているんです。企業には冊子を見てもらって趣旨を伝えました。積極的な企業もありましたが、尻込みする会社も多かったです。

 いい反応ばかりじゃなかったです。駐英大使経験者の一人からは「すぐやめなさい」ときつく言われました。歴史問題は腫れ物に触るような対応で「過去を蒸し返してどうする」という感じでした。元捕虜の間では「ケイコはキリスト教徒を装って和解を持ち掛けてくる日本政府のスパイだ」という手紙が回りました。

 −日本政府の反応はどうでしたか。

 九五年から十二年間、政府が支援してくれました。きっかけは九五年が終戦五十年で、英国では元捕虜たちが大規模な行進を計画し、反日ムードが高まっていたことです。日本人の駐在員の家族は、外に出るのを怖がっていたほどです。

 九四年、私たちの活動に、当時の藤井宏明・駐英大使から「個人としてできるだけのことをしたい」と言っていただけました。直後に、ロンドンの大使館員有志から寄付の小切手がたくさん届いたことを覚えています。翌九五年にロンドンの日本大使館から「日英和解」活動として正式な支援の申し出がありました。

 −活動で印象深いことは何でしょう。

 憎しみって体を硬くするんです。逆に赦(ゆる)すと体が軽くなる。車いすの元捕虜で、日本に行ったら車いすがいらなくなり、立って歩けるようになった人もいるんです。

 九八年の天皇陛下訪英のとき、沿道で日章旗に火を付けて抗議し有名になった元捕虜のジャック・カプランさんという方がいました。たびたび英地方紙に登場して日本批判の発言を繰り返し、「反日」の象徴のような方でした。

 二〇〇二年に私たちの招きに応じて訪日してもらい、すっかり変わってくれました。「日本人は人間味があって誠実な人たちだった。敵は人間でなく、戦争そのものなんだ」と。数年後、彼は八十八歳で亡くなりますが「日本も許せたし、安心してあの世に旅立てる」と言い残してくれたそうです。和解の力を感じます。

 <ほーむず・けいこ> 第2次大戦中、旧日本軍の捕虜となった元英兵や遺族らを日本に招き、和解を進める支援団体「アガペ・ワールド」を主宰。1948年2月、三重県熊野市紀和町生まれ。79年からロンドン在住。92年の活動開始以来、英国を中心にオーストラリア、カナダ、米国の元捕虜ら約1000人と面会し、日本に計500人以上を招いている。日本での訪問先は元捕虜の慰霊碑がある熊野市のほか、被爆地の広島、長崎など。元捕虜が高齢化し、日本政府の支援が途絶えた2007年以降も遺族らの自費の日本訪問を手助けする。1998年に英エリザベス女王から大英帝国第4級勲功章、2018年4月に旭日双光章を受章。

◆あなたに伝えたい

 憎しみって体を硬くするんです。逆に赦すと体が軽くなる。車いすの元捕虜で、日本に行ったら車いすがいらなくなり、立って歩けるようになった人もいるんです。

◆インタビューを終えて

 和食ブーム、アニメ人気と、英国でも最近の日本の評価は高い。日本人としての居心地はよく、その昔、日英が交戦国だったことはほぼ忘れかけていた。

 そんな折、六月にロンドンの日本大使館から「日英和解レセプション」という案内が届いた。一九九七年から続くという行事。今回、参加した元捕虜は百六歳の方一人だけになってしまったが、旧日本軍による英兵捕虜は五万七千人、民間人抑留者も二万人に及んだという。

 ホームズさんもこの行事の出席者。「昔は息子たちもいじめに遭った」と、少し前までむき出しだった英国の反日感情を伝えてくれた。親善を支える不断の努力を忘れてはならない。

 (阿部伸哉)

 

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