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あの人に迫る

桃井かおり 映画監督・女優 

写真・五十嵐文人

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◆世界で戦うにはひとりの強さを 

 日本映画を代表する個性派女優といえばこの人、桃井かおりさん(67)。数々の映画賞を総なめにしながら、五十四歳でハリウッドに挑み、拠点を移した。いまや世界各国の映画に主演するだけでなく、自ら脚本を書き、監督としてメガホンを取る。国際的な評価がうなぎのぼり。まっすぐですがすがしい生き方はいまも女性の憧れだ。

 −長編監督二作目「火 Hee」(二〇一六年)は、放火を犯した娼婦(しょうふ)が自らの呪われた過去を精神科医に話し続けるという意欲作。ベルリン国際映画祭で上映され大反響でした。

 原作(中村文則さんの短編小説)を読んだとき、ぱっと思いついたのは、牢獄(ろうごく)かどこかで壁に向かってしゃべっている女でした。自己主張が強くて協調性がなく、誰からも受け入れてもらえない。ものすごい孤独を抱えているけれど、なんとかして誰かと言葉でつながろうとする最後の生きもの。メールのやりとりでコミュニケーションが済んでしまう今の時代、テーマ的にいいなと思いました。

 −監督、主演、脚本の三役を務めました。

 監督として、俳優の桃井かおりにプレッシャーをかけたくてセリフを覚えさせなかったんです。言いたいことをその場で言う。スタッフにはカットのタイミングを伝えただけでカメラを回し続けました。

 撮りながら発見がありました。私自身あまり人と関わらないで生きようとしちゃってる方ですけど、本当はこんなに人とつながりたいんだとか。人から嫌われそうな桃井かおりのヤバさも確認したり。老けた女と若ぶる気持ち悪い女を演じられるいい時期でしたね。

 −桃井さんの自宅で撮ったそうですね。

 スタッフの移動時間と予算を考えたら、うちの居間をカーテンで囲めば病室のセットになると思いついて。衣装も自分で用意してうちの犬も出ました。撮影が終わると私はオーブンに火を入れて、みんなでごはんを食べながら打ち合わせ。助監督と一緒に犬の散歩に行きつつ段取りを確認したり、朝はおかゆを作ったり。日常生活に映画撮影が入ってきた感じでしたね。

 −役作りはどのように。

 ロサンゼルスのベニスビーチに住んでいたころに、お手洗いで商売する女の人を見ていたんです。サンダル履きで薄汚いけれど、プライドはあって、しぶとく生きようとするたくましさがあった。ロスだからこそ撮れた作品です。

 −なぜ監督を?

 実はテレビドラマのシナリオを何本も書いてきて、カット割りがわかるんです。でも俳優だし、女だし、日本では名前を出せなかった。撮っているといつも神が降りてくるみたいに、アイデアを思いつくんです。それができているあいだは「まだ撮れるな」と思います。

 −同じ年のベルリン国際映画祭で主演したドイツ映画「フクシマ・モナムール」が賞を取りました。東日本大震災後の福島県南相馬市を舞台に、若いドイツ人女性と心を通わせていく熟年芸者の役が印象的でした。

 実際に被災した廃屋で撮りました。仮設住宅に住んでいる方も出てくださって。スタッフや監督にはよく怒ってましたね。ドイツ人スタッフが宇宙服みたいな防護服を着てたから「脱げ」と言って。音が入るからと復興工事を止めようとするスタッフを止め、仮設住宅の方々の前で座っている監督を立たせた。「映画はそんなに偉くない」と。スタッフは日本人で私ひとり。南相馬の方々をこれ以上傷つけてはいけないという思いがすごくありました。

 震災当時、ロサンゼルスではどのレストランも募金活動をしてくれた。世界中が助けてくれているという実感がありました。私ができることは役者として役を通じて世界に伝えること。だから映画人として、撮ってもらってよかったと思いました。日本人じゃ気を使いすぎて撮れませんよ。

 受賞理由には「南相馬の人に心を寄せて」とありました。みなさんに伝えたくてフィルムを持って、仮設住宅と市内の映画館に行き、上映会を開きました。映画に出てくださった方が亡くなっていたり、見ながら「お父さん死んだのね」とつぶやくおばあさんもいて、深く体に残りました。日本では上映されませんでしたが、いつか見られるときが来たら見てもらえたらと思います。

 −メキシコやラトビアなど世界の若手監督とも組んでいます。

 優秀な才能と一緒に仕事したいんです。世界の映画祭で審査員をしていて、才能ある監督を見つけるとハンティングしています。彼らが有名になるころには、私はもうおばあさんになって遅い。だからいま一緒に仕事して賞を取りたい。ノーギャラでもいい。大事なのは、私がやりたいかどうか。俳優としていま一番、清純な気持ちで仕事ができていると思います。

 −五十四歳で初めてハリウッドに挑みました。

 ちょうど父が亡くなった年でした。葬儀が済んだその日にCM撮影でスペインに行き、初めて短編映画を撮りました。帰りにボーイフレンドに会いにロンドンに寄ったけど破局になって。暇だったから舞台のスタッフに会いに行ったら、日本人の役でオーディションがあるよ、と。つらい時期だったので受けた。落ちたんですが、日本に帰るとまたその話が来て。

 −置屋の女将(おかみ)を演じた「SAYURI」ですね。

 やってみたら案外やっていけそうな気がしたんです。向こうでは「芝居がうまいね」という褒め言葉はないんです。俳優かどうか見分けがつかないぐらい、作品の中で役として生きている。例えるならみんな笠智衆さんのような感じ。その芝居のメソッドを学んでみたかった。

 大変だったのは生活の方でした。宅配便の受け取り方、ごみの仕分け方もわからない。トイレットペーパーを買いに行くのも七ブロックも歩かなきゃいけなくて。何もわからず、不安でびくびくしている自分が心底嫌で。でもアパートを借りられたり、全米映画俳優組合に入れたりして、いつの間にか条件が全部そろった。私、石ころが転がっていく方向にただ行ってるだけなんですよ。

 −日本人が世界で戦うために何が必要でしょうか。

 ひとりでいる強さ、かな。自分のことは自分で決める。人がどう思うかとか人の色眼鏡で自分を見ない。日本ではみんな同じような服を着て、人のかんに障らないようなことを言うでしょう。忖度(そんたく)? やめてくださいって。人のためにやってあげた方がいいことをやる? とんでもないよ。やった方がいいことはやりますけど、相手がどう思うかは勝手ですから。自分がしたいことをする勇気を持つことです。

 −これからも米国で?

 サボらない俳優人生をやりなさいと映画の神様に言われてるような気がします。日本でぼんやりテレビ見てると太っちゃう気がするし、かと言って出なさいとお尻たたかれるのも嫌で。もう六十七なので、ある意味、定年じゃないですか。だからたったひとりで“働き方改革”やってるようなものなんです。自分の年齢と、年齢に合った働き方にいかに満足できるか。年齢以上のことはやれない。自分のペースで、どうしてもやりたいと思う仕事をターゲットに、それをめがけてチャレンジしていきたいです。

 <ももい・かおり> 1951年、東京都出身。12歳で英国ロイヤルバレエアカデミーに留学。文学座養成所を経て、「あらかじめ失われた恋人たちよ」(71年、田原総一朗監督)で映画本格デビュー。テレビドラマ「前略おふくろ様」(75年)でブレーク。映画「もう頬づえはつかない」(79年)で日本アカデミー賞主演女優賞。2005年、ハリウッド映画「SAYURI」に出演。06年、長編映画監督デビュー作「無花果の顔」で、ベルリン国際映画祭NETPAC賞。08年、紫綬褒章。映画「火 Hee」(16年)は来月18〜19日に米ロサンゼルスで開かれる「JapanFilmFestivalLosAngeles」のクロージング上映作品に選ばれている。

◆あなたに伝えたい

 相手がどう思うかは勝手ですから。自分がしたいことをする勇気を持つことです。

◆インタビューを終えて

 「日常での本業は“主婦”なんですよ」。庭の掃除や草むしり。近所の人とのバーベキューや愛犬「おそで」との散歩など、日本ではしてこなかった日常のひとつひとつがいとおしいという。三年前には音楽プロデューサーと結婚。かつては「籍を入れて体位が変わるわけじゃなし」と句を詠んでいたというが、「結婚てこんないいものだったとは」と笑う。

 いまは次の主演作の準備で追い込まれているという桃井さん。「自分を甘やかさず、つらい思いをさせないと」とストイックだ。監督として次に撮りたいテーマは「年をとるということ」だそう。私も桃井さんのようにすてきに年を重ねていきたい。

 (佐藤あい子)

 

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