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あの人に迫る

諏訪貴子 ダイヤ精機社長

写真・福永忠敬

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◆父と違う経営で町工場の夢追う

 町工場を経営していた父親の急逝で、専業主婦から一転、経営者に転身した諏訪貴子さん(47)。製造業の工場が集まる東京都大田区で、自動車部品のゲージや金型の製造販売を手掛けるダイヤ精機の二代目社長に就任して十四年がたった。経験のなさを社員の声を聞く丁寧さとアイデアでカバーし、経営をV字回復させた手腕が注目されている。

 −なぜ、社長に。

 急性骨髄性白血病で、二〇〇四年に父が急逝しました。病院に駆けつけたとき、医師から「余命四日」と告げられ、頭が真っ白になりました。当時、父はダイヤ精機の社長で東京商工会議所大田支部の会長でもあった。最期に、父に「会社は大丈夫だから」と伝えましたが、そのとき私は三十二歳で、六歳の息子を抱える主婦。車や家のローンさえ、自分で組んだことがなく、まさか社長になるとは思っていなかった。社員や取引先の方々に背中を押されて決心したもののどうしていいか分からず、インターネットで「社長の仕事」と検索したくらいでした。

 −後継者を意識したことは。

 兄がいましたが、やはり白血病を患い、私が生まれる前に六歳で亡くなっていました。父は絶望し、会社を畳むことも考えていたようですが、顔が似ていたこともあって私を兄の生まれ変わりとして育てようと思ったみたい。私も男の子みたいに生きなければならないと思っていました。大学は工学部以外は行かせてもらえず、アナウンサーになりたかったのに、就職先は父が頼んだ取引先の大手メーカー。エンジニアとして二年間働き、結婚を機に退社して専業主婦になりました。後継者というより、兄の代わりとして生きなければいけないという思いで父の言う通りにしていました。どうして女の子に生まれちゃったんだろうという気持ちさえありました。

 −社長になるまで、会社との関わりは。

 バブル崩壊後、経営が厳しくなり、父に会社を手伝うように言われたことがありました。総務部に配属された私は、経営を立て直すため、社員五人のリストラを提案。しかし、父は受け入れず、そればかりか私をリストラしたんです。小さな町工場では社員は家族同然で、父は社員を守りたかったんですね。私の代ではリストラを進めましたが、社長になって父の気持ちがようやく分かるようになりました。

 −社長就任後、一年ほどで業績はV字回復。経験がなかったとは思えない経営手腕です。

 町工場だからこそ実現できることをしようと思いました。大手メーカーに勤めたとき、とにかく何かを決めるのに時間がかかった。例えば現場で何かが壊れていても、修繕するのにいちいち申請書を書いて、何人もの人にサインをもらわなくてはいけない。直接、お金を生み出しているのは現場なのに、現場の声は届きづらい。そういったことをなくしたかったし、中小企業ならできると思った。会社や私に対して問題点の改善を求める「悪口会議」も定期的に開催しました。

 父は創業者でオーラがあり、トップダウンで物事を進めていました。私は父のまねはできないと思ったので、社員一人一人に目を配り、丁寧に意見を聞くボトムアップのやり方に変えました。「リーダーはまず相手に奉仕し、それから相手を導く」というサーバントリーダーシップの方法です。その一つが新入社員との「交換日記」です。不安や不満の声をいち早く聞いて、問題を解決したいから。できるだけ長く働いてもらいたい気持ちもあります。

 −一方で、「良い」と思った人でも採用しないこともあるそうですね。

 ウチよりもその子に合う企業がほかにあると感じたら、よそを勧めます。海外では転職は普通ですが、日本では必ずしもキャリアアップにつながるとは言えません。力を秘めた子の履歴書を汚したくないですし、縁があればまたつながりができると考えています。

 −「経験のない若い女性の社長」ということで、つらい思いをしたことは。

 製造業で女性の社長というのは珍しかったので、最初は男性経営者からいろいろ言われました。「目立ちたがり屋」だとか「親の七光」だとかね。へこむこともありましたが「光ってるでしょ」って笑って言い返してるうちに、何も言われなくなりました。

 子どものころは内気で、引っ込み思案だったんです。周りを気にして自分が出せない子どもだった。変わったのは中学二年のとき。私の誕生日に家族で外食した帰り、駅の改札付近で父が突然「おまえはいったい、何を考えているんだ! そんなことでいいと思っているのか!」と私に向かって怒鳴り始めたんです。父は家ではいつも優しく、怒られたことなんてなかったのでびっくりしました。人だかりができ、警察まで来て死ぬほど恥ずかしかった。その後、父に「今日のことを見た人は家族に話すだろう。でも明日になればみんな忘れてる。おまえは一生、忘れられない思いをしたかもしれないが、自分が思うほど周りはおまえのことを気にしていない」と言われました。まさにその通りで心が軽くなりました。

 社長になったばかりのころ、取引先の銀行と大げんかしたことがありました。就任のあいさつに行ったら、銀行の支店長から「おまえが? 大丈夫なのか?」と言われ、プチンと切れた。「誰に向かっておまえだ!」とロビーで大げんかになりました。

 そのときはなんとか収まりましたが、主婦の私が社長では倒産すると思ったんでしょうね。後日、その支店長に別のメーカーとの合併を持ち掛けられ「新社長には合併先の社長に就いてもらうので辞めていただきたい」と言われました。冗談じゃない。「半年で結果を出す」とたんかを切りました。会社を立て直そうと無我夢中でしたが、駅での父との一件があったからこそできたことだと思っています。

 −輝いている女性に贈られる「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」の大賞を受賞されました。

 男の子として育てられた私が女性の賞を頂き、天国の父が一番驚いていると思います。授賞式では、私を支えてくれた幹部社員三人が泣いているのを見て、私も胸が詰まりました。

 十四年間、分からないなりにとにかく必死でやってきました。後を継いだことは後悔していません。工学部に入ったのもエンジニアになったのも、すべてはこの道のためだったんだと感じています。人生を変える大きな決断をしましたが、つらいと思ったことは一度もない。「社長」のよろいを着ているとピンチでもチャンスと捉え、突っ走ることができる気になります。

 −今後の展望は。

 昨年、IT関連の会社を立ち上げ、創業者にもなりました。社員はほぼ全員、私の代で採用した人たちに変わり、ようやくスタートラインに立てた気持ちです。今、国内の産業は空洞化していて、中小企業の技術は海外に流れています。日本のモノづくりの技術を継承するために、中小企業は連携しないと。みんなで勝ち残り、夢を追っていきたいです。

 <すわ・たかこ> 1971年、東京都大田区生まれ。成蹊大工学部卒。自動車部品メーカーのユニシアジェックス(現日立オートモティブシステムズ)入社。98年と2000年、父親の要請でダイヤ精機に2度入社し、半年〜数カ月勤務するが、経営方針の違いから2度ともリストラに遭う。04年、ダイヤ精機社長に就任。経済産業省産業構造審議会委員、政府税制調査会特別委員などを歴任。最も輝いた女性に贈られる「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」大賞受賞。著書に「町工場の娘」「ザ・町工場」(いずれも日経BP社)。自身をモデルに描いた連続テレビドラマ「マチ工場のオンナ」(全7回)が17年11月からNHK総合テレビ「ドラマ10」で放送された。

◆あなたに伝えたい

 就任のあいさつに行ったら、銀行の支店長から「おまえが? 大丈夫なのか?」と言われ、プチンと切れた。「誰に向かっておまえだ!」とロビーで大げんかになりました。

◆インタビューを終えて

 「スーパーウーマンと言われるけど私は失敗例」と謙遜し、社長就任以来のドタバタぶりを話しては何度も大きな声で笑った。そのはじけるような笑顔に引き込まれた。諏訪さんと初めて会ったのは昨年末。東京都内での講演会だった。著書を買ったら表紙の裏に「和をもって夢を追う」と書いてくれた。意味を問うと「和算=プラス。人と和をもつことで相乗効果が生まれ、夢を実現させられたらいいなって」。女性経営者のつらさを聞いてみたが「子育てや介護など抱えるものがいろいろあるところかな。でも本質的には男も女もない」と答えた。華やかだが飾らず、相当、肝が据わっている。そんな親分に、あこがれた。

 (花井康子)

 

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