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あの人に迫る

村上敏明 戦争の語り部

写真・望月衣塑子

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◆あやめた母と妹 遺言の九条守る

 村上敏明さん(83)は毎週金曜、関西電力京都支店前での脱原発のアピール行動に参加する。改憲阻止のための三千万人署名運動に携わり、戦争の語り部も続ける。若い人にも戦争の悲惨さを伝えたいとフェイスブックやツイッターを利用し、フォロワーは計五千四百人を超えた。その熱意は、戦後の旧満州(中国東北部)で母と妹を自らの手であやめた深い悲しみと絶望から来ている。「戦争が全てを奪った」。亡くした二人に突き動かされるかのように、いまを生きている。

 −戦前、なぜ満州へ。

 一九三八年に鉄道貨物会社の社員だった父六夫(むつお)=当時(32)=の転勤に合わせ、母こま=同(26)=と四歳の私、弟淳(じゅん)=同(1つ)=の四人で満州の大連に渡った。四一年四月、満州の新京(現長春)の小学校に入学、四二年八月、四平に転勤となり、四平小学校に転校した。

 終戦間際の四五年一月、日本政府は「持久戦の主たる抵抗は国境にて行い」「兵は国境寄りに置き、この部隊は玉砕せしめる。武器など補給は予定しない」などと言い、国境にいた正規軍を沖縄やフィリピンに移そうとした。代わって四平の学校の先生や父のような会社員が、北の国境警備隊に当たるよう徴兵された。

 −ちょうど同じころ、妹芙美子(ふみこ)さんが生まれた。

 四五年五月、芙美子が生まれたが、戦争の混乱で役所が記録を取らなかったのか、戸籍謄本には誕生や死亡時の記録が全くない。

 ポツダム宣言を受諾後の八月九日、ソ連軍が満州に侵攻を開始。私は小学五年生だったが、男手がなく「ソ連の戦闘機が飛んできたら知らせてくれ」と言われ監視要員に。中学生は火薬を詰めた竹筒でソ連兵の陣地を壊す訓練を強いられ、ソ連軍の戦車にひかれて死亡した先輩もいた。

 −日本政府の棄民政策に失望した。

 終戦前、ポツダム宣言受諾を決めていた日本政府は「外地に居る居留民はでき得る限り定着の方針を執る」と棄民政策を打ち出した。戦後、一挙に満州の日本人が、日本に戻ったら混乱すると思ったのだろう。

 詩人の加津牟根夫(むねお)さんの「軍隊は住民を守らぬものなりし、満州を見よ、沖縄を見よ」の詩に私は「今、福島を見よ」と付け加えて発信している。敗戦後の政府も、現在の政府も都合の悪いものは、常に排除し続けているのは同じだ。

 敗戦後も兵隊たちは郊外の川岸で「俺たちは負けない戦うぞ」と穴を掘っていたが、政府は棄民政策を強め、八月二十六日に大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。このころ四平にはソ連兵による威嚇のための発砲音が毎日聞こえるようになった。

 敗戦を迎えた八月から引き揚げる翌年九月まで、ショックのためか、どう暮らしていたかの記憶がない。シベリアに抑留された父の給与は凍結され、母は街頭でがんもどきなどの立ち売りをしていたようだ。

 満州の財界有志が、カトリックの司教や中国政府の要人の協力を得、ソ連軍が支配する中、秘密裏に脱出し四六年二月、日本へ渡航。GHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー司令官や吉田茂外相に満州の日本人百五十万人のうち0・3%が毎日飢えなどで死んでいると、窮状を訴えた。

 その後、四平では四六年三月、ソ連兵が撤退、同時に内戦中の中国共産党の軍隊が進駐した。五月には、中国正規軍が四平を占領支配。四平中心部では戦闘があり、日本人がバリケードを造る作業をさせられた。

 市街地の戦争で中国正規軍が入った時に、重要拠点で発砲が続いた。親友の小林允(まこと)君は、中国軍の少年兵に死体の中に埋もれて隠れろと言われ、その指示に従い、九死に一生を得て無事、日本引き揚げが実現した。

 −それなのになぜ、妹をあやめることに。

 四平の日本人会幹部が中国の関係者と協議を重ね、「栄養不良で病弱の子供は列車の旅で大変になるから殺すように」と、指示を出したようだった。

 詳細は思い出せないが、自宅には母と二人の弟、医者、お坊さんがいて、僕に恐らく何かを指示した。僕は母が胸に抱いていた一歳の芙美子の小さな口に毒入りの水をスプーンで注いだ。瞬間、芙美子は目を見開き僕をじっと見て、そのまま息を止めた。その顔は「お兄ちゃん何をするの」と、にらみつけ必死に訴えているようだった。まだ、言葉は発しなかったが、苦しそうな目だけは、今でもはっきりと思い出す。

 七月七日、四平をたったが、母親は車内でじっと横になって「芙美子、芙美子」とうなされていた。

 引き揚げ窓口の日本人会が病弱の子を殺すことをどこで決めたかの記録はない。妹は戸籍に記載されておらず、妹の死を知るのは私と弟と小林君だけだった。

 ショックのためか、妹を殺した後の記憶がないが、小林君は三十六年後に再会した時、開口一番「お母さんどうしてる」と聞いてきた。「なぜ」と聞くと、「君のお母さんは妹さんをあやめた数日後、引き揚げで僕の家の前を通った時に歩かず荷車に乗り、僕らに手を合わせていた」。小林君は「君は泣きじゃくり『妹を殺した』と話していた」と四平での出来事も語った。

 −その後、母親もあやめることになった。

 七月下旬から八月七日にかけて母は動けなくなり、葫蘆(ころ)島港(現遼寧省)近くの病院に入院した。数日後、薬を飲ませていた私に、いつもと違う白い薬が医師から手渡された。母の口に流し込むと、母はすぐに白い泡を吹き息を引き取った。当時、回復の見込みがない病人には、青酸カリが処方されていた可能性が高いと、後に知らされた。

 その晩は、弟を含めて三人で母の亡きがらの横に添い寝した。翌日、海の見える丘に母を土葬。リュックの中に母のお気に入りの着物があり、うち一枚を遺体にかけ土をかぶせた。船の汽笛が葬送の調べのようだった。母は芙美子から離れたくなかったのかも。

 港しかない場所だったが、葫蘆島はいま新幹線も通る二百万人の大都市に。母の埋葬場所は分からないだろうが、行ってみたい。

 −その後、故郷までどうたどり着いたのか。

 九月十日に船が長崎・佐世保に到着。学生の手を借りて京都駅にたどり着き、そこで京都府の職員らしき人が、母の故郷の亀岡まで私ら兄弟三人を連れ、祖母に引き合わせてくれた。

 弟の淳=当時(9つ)=は帰ってすぐ結核性髄膜炎で亡くなった。天井を見ながら「芙美子、芙美子」と弟もまた妹の名を呼び、うなされて死んでいった。

 −いまを生きる世代に何を伝えたいか。

 芙美子や母は、なぜ私に殺され、死なねばならなかったのか。戦争という不条理がそれを肯定した。戦争に正義などない、あるのは不条理と戦争から生まれる癒えることのない、憎しみと悲しみの連鎖だけだ。

 戦争しない国を掲げた憲法九条は、母と芙美子が私に残してくれた遺言だ。戦争を知らない世代が権力を牛耳り、若い世代で、戦争につながる行動が肯定されていると感じる。社会の分断を食い止め、戦争への道を止めるため、いまやれることをやらねば。

 <むらかみ・としあき> 1934年京都生まれ。父の転勤に合わせ38年に旧満州・大連に移住。その後、母、弟と四平に移った。敗戦で46年に日本への引き揚げ時に、病気がちの妹(1つ)を医師の指示であやめる。母はその後に衰弱し、同8月6日、病院で医師の調剤した薬により死亡。同9月10日、船で佐世保に帰還した後、弟2人と京都府亀岡市の祖母宅へ。51年、京都市教委に就職。60歳の定年後も大阪府島本町の図書館勤務の傍ら夜間高校に通い、立命館大2部を卒業。3・11以降、京都市伏見区に避難した福島の人々とつながり反原発運動に参加。2012年から「金曜日関西電力京都支店前アピール行動」に参加し、市民運動に関わり続ける。

◆あなたに伝えたい

 戦争を知らない世代が権力を牛耳り、若い世代で、戦争につながる行動が肯定されていると感じる。

◆インタビューを終えて

 市民活動で活躍する医師の竹内由起子さん(43)から「すごい人がいる」と村上敏明さんを紹介された。

 「戦争は絶対だめ」と繰り返し、太い眉の下のつぶらな瞳の奥に揺るぎない意志が見え隠れするようで圧倒された。

 愛する母や妹をあやめたことへの罪の意識を背負い、長い沈黙を続けたが、政治の進む方向に危機感を募らせ「今こそ言わねば」と、二〇一〇年に「四平小学校同窓会記念誌」で満州での自らの体験を記し、それ以降、積極的に語るようになった。不思議と毎晩見ていた悪夢を見なくなったという。

 「残りの人生で、芙美子や母が『きちんと戦争を語り尽くして』と言いたかったのかな」

 村上さんの心のバトンを私たちが引き継いでいかなければ。

 (望月衣塑子)

 

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