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あの人に迫る

玉城功一 八重山戦争マラリアを語り継ぐ会会長

写真・吉原康和

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◆軍命が起こした惨状風化させぬ

 国内唯一の地上戦で県民四人に一人が犠牲となった沖縄戦から、間もなく七十三年を迎えるが、沖縄県南端の八重山諸島で三千六百人以上の住民が「戦争マラリア」で亡くなった事実はあまり知られていない。悲劇の原因は何か。「八重山戦争マラリアを語り継ぐ会」会長の玉城功一さん(80)に聞いた。

 −「戦争マラリア」問題に取り組むきっかけは。

 沖縄県の本土復帰記念事業として一九七〇年から始まった県史編さんで、「戦争マラリア」に関する波照間(はてるま)島の住民聞き取り調査を担当したのがきっかけでした。当時、私は石垣島の高校で社会科を教える教員でしたが、ソニーの録音機を百二十ドルで買って、島に向かいました。ところが、「戦争マラリア」の体験者の方々は、当時のことを話したがりませんでした。特に印象的だったのは、家族十七人のうち自分一人だけが生き残ったという大泊ミツフさん(故人)でした。ぜひお話を伺いたいと自宅を訪ねたところ、開口一番、「この三十年間、つらかった記憶を忘れようとしてきたのに、今さら思い出せと言うのですか」と叱られました。大泊さんからの取材は無理と思っていたら、しばらくして「子や孫のために書いてみたから」と手記を持参してくれました。家族の死亡状況などが非常に詳しい。「これこそ、体験者の本音だ」と実感。その後、約五十人から証言を集め、県史に載せることができました。

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 −「戦争マラリア」とは、どのような被害ですか。

 「戦争マラリア」とは、戦争の影響を受け、マラリア罹患(りかん)者や死亡者が急増することを言います。沖縄戦が始まると、日本軍の命令などで住民はマラリア有病地への避難を余儀なくされ、八重山諸島全体で、三千六百四十七人もの人が亡くなった。戦争の影響を受けた被害を、平時のマラリアとは区別し、「八重山戦争マラリア」と呼んでいます。

 −三千六百人以上の住民が亡くなったのはなぜか。

 与那国島のように、空襲を避けて住民が自主避難してマラリアに罹患したケースもあります。しかし、その多くは、日本軍の軍命によるマラリア有病地への強制疎開が原因でした。その典型例は波照間島で、島民千五百九十人全員が西表(いりおもて)島に強制疎開させられた。この結果、波照間島に帰島後も含む島民の99・8%にあたる住民がマラリアに罹患。一家断絶の家もあり、人口の三割に及ぶ四百七十七人が命を落としたのです。

 −玉城さんはいかがでしたか。

 帰島後、家族全員がマラリアに罹患し、私も高熱で二〜三日、意識不明になりました。しかし、私が発病したころは終戦となり、米軍から配給された特効薬「アテブリン」で命拾いしました。

 −なぜ、西表島への疎開だったのか。

 「米軍の上陸に備えて」というのがその理由でした。しかし、島民も西表島の南風見(はいみ)地区が当時マラリア有病地だと知っていた。そこで、島民から「自分たちを殺す気か」と反対の声も上がりましたが、その声を遮った人物がいました。「山下虎雄」の偽名で軍から派遣された男です。陸軍中野学校出身の特務兵で、四五年二月に波照間青年学校の指導員として赴任していました。しかし、軍から疎開命令が出ると、軍刀を片手に「これは日本軍の命令だ。従わない者は、たたき切ってやる」と島民の声を抑えつけました。

 −軍が島民の強制疎開にこだわったのはなぜか。

 波照間島では、住民の強制疎開直前に七百〜八百頭いた牛馬が全滅させられました。島民は牛馬を自分の家族のように大切に使っていたが、疎開命令後、山下は「米軍は肉食だ。牛馬を一頭でも残したら、米軍の食料になる。自分たちで殺せ」と命じてきました。しかし、島に残っているのはお年寄りか婦人、子どもばかり。そこで、山下は徴兵年齢に満たない青少年を集め、挺身(ていしん)隊を組織。軍と一緒になって牛馬を殺処分し、薫製にさせた。「子どもは見てはいけない」と言う大人たちの声を聞かず、私は雑木林の木陰に隠れて牛馬が殺されていくのを目撃した。男四人がかりで処分していく現場は実に残酷そのものでした。処分した家畜を薫製にできるかつお節製造工場が島内に八つあることも、軍は把握していた。牛馬を取り上げるためには、住民をそっくり西表島に移住させる。多くの住民の証言などから、疎開命令の真の目的は軍の食料確保にあったことが明らかになってきました。

 −これらの食料はどこに。

 大半は石垣島の日本軍の八重山守備隊本部です。当時、石垣島には、陸海軍の三つの飛行場ができていた。飛行場建設には、八重山諸島などから一万人近い住民が集められていた。石垣島に駐留していた約一万人の陸海軍の軍人・軍属と、新たに動員された住民部隊の約一万人を抱え、軍は深刻な食料不足に陥っていた。当時、軍の食料は現地調達が基本。穀物類は農家から調達できたが、不足していたタンパク質の確保は軍にとって急務の課題となっていたと私たちはみています。

 −戦後五十年の九五年、政府は、石垣島、波照間島など五島に軍命があったことを認め、三億円の「慰藉(いしゃ)事業」で慰霊碑建設などを実施したが、個々人への補償は見送られましたね。

 決着したとは思っていない。マラリアで亡くなった人たちはそれぞれ事情が異なる。それを国が調査して、一人一人の被害実態に見合う形での補償を、遺族は期待していた。「慰藉事業」という耳慣れない言葉で、慰霊碑などはできたが、自分たちには何の補償もない。国に不信感を抱く人も少なくありません。

 −「語り継ぐ会」を結成した理由は。

 戦後から沖縄復帰までの三十年間を「沈黙の時代」、そして県史編さん事業から慰霊碑建設などを経た三十年間を「証言の時代」と私たちは呼んでいます。今は「風化の時代」です。なぜ、風化なのか、といえば、一つには体験者の高齢化がある。もう一つは、関係する市町村長や議員らリーダーが「沈黙の時代」に育ち、体験者に魂に響くような話を聞いていないし活動もしていない。この風化の時代をなんとかしたいという思いで立ち上げたのが「語り継ぐ会」です。

 −今後、どのような活動を展開する考えですか。

 会を結成する八年前、和歌山県の劇作家、栗原省さんが、波照間島の「戦争マラリア」を「ハテルマ・ハテルマ」という朗読劇にして公演していることを知った。「これだ」と思いましたね。栗原さんの指導を受けて八重山各地で朗読劇や紙芝居を続けています。戦後七十年を経て、戦争に向かっていく戦前の状況に近づいているような気がします。沖縄戦直前、石垣島には三つの飛行場がつくられた。そして今、八重山諸島には、自衛隊が相次いで配備されようとしている。歴史を繰り返してはならないと思います。

 <たましろ・こういち> 1937年、沖縄県波照間島生まれ。「八重山戦争マラリアを語り継ぐ会」会長。8歳の時に家族とともに西表島東側の由布島へ疎開していたが、波照間島に帰島後、マラリアに罹患した。戦後、琉球大教育学部を卒業。38年間、八重山諸島で小中高の教員を務めた。70年から4年間、沖縄県史編さんにかかわり、「戦争マラリア」に関する波照間島の島民約50人の証言を集めた。マラリアとは、熱帯から亜熱帯に分布する原虫感染症。62年に八重山諸島で患者数ゼロを記録し、撲滅を達成した。2010年6月に「八重山戦争マラリアを語り継ぐ会」を結成。戦争マラリアの悲劇を朗読劇や紙芝居などで伝える活動を続けている。

◆あなたに伝えたい

 牛馬を取り上げるためには、住民をそっくり西表島に移住させる。真の目的は軍の食料確保にあった。

◆インタビューを終えて

 日本最南端の有人島、波照間島は、サンゴ礁と南十字星が美しい島と聞き、一度、訪ねたいと思っていた。「もう一つの沖縄戦」と呼ばれる八重山諸島の「戦争マラリア」の体験者の玉城さんも波照間出身。七十三年前、木陰に隠れて家族同様の牛馬が殺されていく様子を目撃した、当時八歳の玉城さんの記憶はリアルだ。西表島への強制疎開命令の目的が軍の食料確保とは、すさまじい。疎開した島民が亡くなった西表島南風見田の浜に「忘勿石(わすれないし)」の碑がある。玉城さんは、今の状況を「風化の時代」と危ぶむ。人間が人間でなくなる戦争の実相を後世に伝えたい、という願いは切実だ。

 (吉原康和)

 

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