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あの人に迫る

山田真由美 認知症の人同士の交流窓口を開設した若年性認知症患者

写真・北村彰

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◆認知症患っても困らない社会に

 一般的には高齢者の病気と思われている認知症だが、六十五歳未満で発症する「若年性認知症」になる人もいる。名古屋市西区の山田真由美さん(57)もその一人で、五十一歳の時に認知症と診断された。将来を悲観して引きこもった時期もあったが、現在は各地で講演したり、相談窓口を開いたりと、積極的。認知症になっても暮らしやすい社会にするため、進行の不安と向き合いつつ、当事者目線で前向きに発言している。

 −最近、落ち込むことがあったそうですね。

 昨年末、胆石の手術のため、市内の病院に入院したのですが、身の回りのことで、できないことがたくさんあり、気持ちがふさいでしまいました。私は認知症を患っていますが、見た目では分かりません。いつも、自分は認知症だと明かし、いろんな人に助けてもらっていますが、忙しそうな看護師や病院の職員には声を掛けにくく、思い切って助けを求めて、怖い対応をされた時もありました。

 特に、トイレでそそうをしたことがトラウマ(心的外傷)になり、夜の間ずっと「いつ看護師に知らせて、トイレに行ったらいいのか」と考え、天井を見ながら、不安な気持ちと戦っていました。退院後しばらくは「こんな私が講演して、何の意味がある?」と思ってしまって、以前のように笑えなくなりました。

 −山田さんは、物忘れの症状は少ない一方、空間を認識する能力が衰え、当たり前にできていたことが、できなくなっているそうですね。入院中は不慣れな環境に対応せざるを得ず、大変だったのでは。

 家とはトイレの形状や鍵のかけ方も違いますし、普段の外出先でもよく混乱します。「認知症=物忘れ」というイメージを抱く人は多いと思います。私も診断を受けた時は、物忘れがどんどん進んでいき、最後は子どもの顔も分からなくなると。でも、実際は、人それぞれ症状が違います。

 私は洋服を着るのが大変です。どちらの袖に、どっちの腕を入れるのか、服の表裏はどちらなのか、迷います。簡単に着られそうな服を選びますが、着替えに半日以上かかることもあります。財布にきちんとお金をしまうのもできず、さっと支払いを済ませることができないから、忙しそうなレジには並べません。

 今は、思った以上に速いペースで病気が進行していて、スリッパをうまくはくこともできなくなっています。はしも簡単には持てなくなって、食事にも時間がかかり、疲れてしまって食べるのをあきらめることもあります。

 認知症との診断を受けたので、六十五歳未満でも介護保険を利用でき、自宅で作業療法士のリハビリを受けたり、デイサービス施設に通ったりして、残された機能の維持に努めています。講演も進行予防の一つと思い、続けています。

 −認知症と告げられた時、どう思いましたか。

 「まさか、物忘れもないし、おかしい」と。その三年ほど前から、漢字が書けず、乱雑な字になったり、得意な計算ができなくなったりしていました。仕事のミスも続き、心療内科を受診したら「うつ病」と言われました。

 納得がいかないまま、様子を見ていたところ、同じマンションの人の自転車に間違えて乗って気付かなかったり、笑い話では済まない間違いが増えてきました。もう一度、同じ病院で検査したら、アルツハイマー型認知症と分かりました。お年寄りの病気と考えていたので驚きました。進行におびえ、考えるたびに涙が出ました。

 −仕事を続けることはできたのですか。

 シングルマザーとして、長男(29)と長女(28)を育ててきましたが、当時は大学生で、自立したとは言い難い状況でした。私が働けなくなり、収入が断たれることが、不安な気持ちに拍車をかけていました。

 当初、職場の上司と同僚には、病気のことを伝え、助けてもらいながら仕事をしていましたが、包丁をうまく使えなくなったりして、今は休職中です。今春、退職予定ですが、すぐに辞められなかったのは、復職できるかもという希望を抱いていたからです。

 ただ、私の症状は作業ができなくなっていくので、手慣れていたはずの調理の仕事も難しいですし、新しい業務に慣れることもできません。精神障害者の認定も受け、障害者が働ける就労継続支援事業所なども探していますが、働けるところは少ないです。

 若年性認知症の場合、一家の大黒柱として働いている人も多く、働けなくなってしまうと生活が困ります。仕事を辞めても受け入れ先は少ないですし、家で閉じこもっていると、病気のことばかりを考えるようになり、自分の存在価値がなくなったようで、さらに落ち込んでしまいます。

 職場の理解を得ながら、働き続けることが普通のことになってほしいと、強く思います。若年性認知症の人の就労を考える検討委員会では、当事者の思いを伝えています。せっかくの機会を与えられたのだから、次の世代の人たちのためにも、頑張りたいです。

 −人前で認知症の当事者として、話すことに抵抗はなかったのですか。

 最初は、周りの人たちに認知症だと絶対に知られたくなくて、認知症の薬のごみも分からないように捨てるなどして、大丈夫なふりをしていました。休職後は家に引きこもり、病気のことばかりを考え、暗い気持ちで過ごしていました。二〇一三年に若年性認知症の人と家族の交流会「あゆみの会」に参加した時も、出席者に近所の人がいないか、事前に事務局に確認してから出掛けたほどです。

 そんな私が変わったのは、当事者との出会いからです。一五年の春にあった交流会で、同じ症状を持つ、同世代のシングルマザーの女性に話し掛けました。「私、字が書けないんです。着替えもできない」と。意気投合して、悩みを語り合うと、自分だけが苦しんでいるわけじゃないと分かりました。「自分にもまだまだできることがある」と、力が湧いてきました。

 それからは、積極的に外へ出るようになりました。近所のスーパーや通院するバスの中など、困った時は、勇気を出して声を掛けます。買い物しても袋詰めができないのですが、一声掛けると、快く助けてもらえることが多く、人のやさしさも知ることができましたし、第一、自分がとても楽になりました。

 認知症になっても楽しく過ごせますし、助けてくれる人はたくさんいます。大丈夫です。認知症になっても暮らしやすい社会になればと、認知症サポーター養成講座や講演会で、自分の経験を語るようになりました。

 −認知症の人同士が相談、交流できる場「おれんじドア」も設けましたね。

 認知症の当事者同士にしか、分からない悩みや気持ちもある。家族も抜きで語り合える場が欲しかったからです。仙台市で活動する若年性認知症の丹野智文さんが仙台ですでに開いていると聞き、名古屋でもできたら、と思いました。地元の名古屋市西区などに提案し、協力を得ました。

 皆さん、最初はおっかなびっくりの様子でやってきますがストップしたくなるぐらい、いっぱい話して、元気になって帰ります。私は話したいのをおさえて、聞き役です(笑い)。当事者同士で話を共有できたり、共感し合えたりする場が、全国に広がればいいなと思っています。

 <やまだ・まゆみ> 1960年、名古屋市西区生まれ。地元の高校を卒業後、会社員などを経て、同市内の小学校で25年ほど給食調理員として勤務していたが、2011年、51歳でアルツハイマー型認知症と診断され、15年から休職中。13年、同市の若年性認知症の人と家族の交流会「あゆみの会」に参加。16年から同市や津市などで講演活動を始め、現在は、認知症サポーター養成講座の講師も務める。17年5月から、名古屋市西区地域包括ケア推進会議認知症専門部会委員に就任。毎月、西区役所で認知症の人同士が相談、交流できる窓口「おれんじドア」も開く。同年8月から、厚生労働省の事業の一環として「企業等における若年性認知症の人の継続雇用に関する調査研究事業」の検討委員になった。

◆あなたに伝えたい

 認知症になっても楽しく過ごせますし、助けてくれる人はたくさんいます。大丈夫です。

◆インタビューを終えて

 「もう、講演したいと思えなくて」。昨年末の入院で自信をなくし、涙目になる山田さんをどう励ましたらいいか、分からないまま、取材を終えた。

 一六年に講演会で初めて声を掛けた時から、常に前向き。想像しづらい当事者の悩みや思いを率直に話してくれた。介護担当になったばかりの私は、普通に暮らす当事者の声を伝え続ける必要性を教わった。

 そんな“先生”はやっぱり強かった。翌朝、電話で「認知症になっても生きやすい社会にするため、することがいっぱいある。私がへこんでたらだめよね」。その姿勢に、認知症の人も、私も、勇気づけられている。

 (出口有紀)

 

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