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あの人に迫る

浅井久仁臣 ジャーナリスト

写真・鵜飼一徳

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◆相手の立場思い 戦争ない世界に 

 パレスチナなど中東を中心に、三十年近く戦場取材を重ねたジャーナリストの浅井久仁臣さん(70)。英語教育や災害支援などさまざまな活動にも取り組み、平和を担う後進の育成に尽くしてきた。各地で自国第一主義が台頭するなど、暴力性や不寛容さが増す世界をどう見ているのか。平和を希求する思いや視点を聞いた。

 −幼いころに父親を亡くした経験がジャーナリストを目指す原点でした。

 職業軍人として朝鮮半島に駐在していた父は、現地で結核にかかり、引き揚げ後、自分が一歳の時に亡くなった。母も教員で忙しく、父がいない寂しさを強烈に感じて育つ中で、「戦争が父を奪った」と考えるようになった。ジャーナリストを志したのは、近所に多かったシベリア帰りの旧日本兵らから「新聞記者は戦争をなくす仕事」と言われたのがきっかけ。当時は、学校にも戦争帰りの教員が多く暴力が日常的。暴力への嫌悪感を常に感じながら、「戦争のない世の中をつくりたい」という思いを強めていった。

 −高校卒業後、一九七〇年に渡英。どのように取材活動を始めたのですか。

 ロンドンのジャーナリズム系の大学で学びながら、毎日新聞ロンドン支局で助手をした。特派員の故・小西昭之さんの紹介で、高校時代に「南ヴェトナム戦争従軍記」を読んで憧れたジャーナリストの故・岡村昭彦さんにも出会い、本や地図の読み方、戦場取材の準備の仕方などを教わった。常識や枠組みにとらわれず、本質を見ようとする姿勢はその後も相当に影響を受けた。

 −パレスチナ問題の取材を始めたきっかけは。

 ロンドンで生活を始めて少ししたころ、パレスチナゲリラが西側諸国の旅客機四機を同時にハイジャックした「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)旅客機同時ハイジャック事件」が発生。皿洗いとして働いていたホテルのテレビ画面に映るゲリラたちを見て「この人たちはここまでして何を訴えているんだろう」とすごく気になった。同僚だったパレスチナ人から話を聞きながら興味を深め、翌年にヨルダンやシリアに入った。

 −その後、レバノン内戦や湾岸戦争など三十年近く中東取材を続けますね。

 七一年に初めてヨルダンを訪れてすぐ、損得なしで付き合うアラブの文化に引かれた。子どもの食事も満足にないのに初対面の自分をごちそうでもてなしてくれたり、爆撃時に地元住民が外に出てまで防空壕(ごう)に入るように勧めてくれたり。「何だこの人たちは」と信じられないようなことがたくさんあった。

 パレスチナでは、外出禁止令下で遊ぼうと外に出た子どもが銃殺される、移動が制限され病気の家族とも自由に会えないというような状況を何度も見聞きした。そういう抑圧が起きているのに、西側社会が自分たちの利益のためにイスラエルを利用し続けている。暴力にさらされた人たちにとって一番つらいのは、無視され忘れられること。暴力が続く限りは、爆撃される側の人たちの声を伝え続けることを徹底した。

 −パレスチナ解放機構(PLO)のカリスマ的存在だったアラファト氏(一九二九〜二〇〇四年)に何度も取材していますね。

 アラファト氏には八〇年にレバノンのベイルートで初めて会い、翌年の初来日では単独で密着取材した。八三年にレバノン・トリポリのパレスチナ難民キャンプで再会。「こんなに遠くまで来てくれたのか」と歓迎され、難民キャンプがシリア軍系の勢力に包囲されると「この事実を世界に伝えてほしい」と真っ先に連絡をくれた。十年以上にわたって付き合ったが、欧米や周辺のアラブ諸国に散々振り回されながらも「パレスチナに戻る」という原点を忘れない、信念の人だった。

 −イスラム世界をめぐってはなぜ摩擦が続いているのでしょうか。

 これまで西側社会はテロなどが起きるたびに「野蛮だ」「狂信的だ」とたたくだけ。その背後にどんな苦しみや価値観の違いがあるのか、考えようとしてこなかった。問題の本質から目をそらしてきた結果が、ISやアルカイダなど不満の爆発につながっている。人間は弱いから、異論に目を向けず、居心地の良さを優先しがち。でもその居心地の良さが、他人の不幸の上に成り立っていないか、常に考えなければいけない。

 テレビの世界と距離を置いたのも、視点が内向きになっていると感じたから。八〇年代後半ごろから報道番組のスタジオに視聴率が掲げられるようになった。「海外ものは数字が取れない」というような会話が平気で交わされ、強い違和感を覚えた。

 −戦場取材の他にもさまざまな活動をしています。

 三十代のころから取材活動と並行して開いてきた英会話教室は、英語の習得だけでなく、ジャーナリストなどさまざまな分野で活躍する人を呼び、意見を共有し合う場にもしていた。九五年の阪神大震災時は、教室の生徒らとボランティア団体を設立し、被災地に駆けつけた。現地の第一印象は「戦場と同じだ」ということ。戦場取材で身につけた危機管理のノウハウを生かせると感じ、その後は行政などと協働して災害対策に取り組んだ。どの活動も、根本にあるのは「社会的弱者が苦しい思いをしない社会をつくりたい」という思い。弱者を最も苦しめるのが戦争。ジャーナリストの仕事として自分の中では一貫している。

 −五年前に故郷の愛知県岡崎市に戻ってきました。

 それまで全く興味がなかった郷土の偉人の徳川家康について勉強してみると、家康が参勤交代や朝鮮通信使など戦争を起こさないための仕組みづくりに尽くしていたことに気付いた。三歳で母親と離別、六歳で人質に出されるなど戦争に翻弄(ほんろう)された家康の姿は、自分が一歳で父を亡くした体験とも重なり、家康の平和を希求する思いがすごく分かるように感じた。

 江戸時代には批判も多いが、実際に二百六十年間も戦のない世の中が続いたという事実には目を向けるべきだと思う。特に、武力で隣国を侵略した朝鮮出兵の後、文化の力で関係回復をした朝鮮通信使は平和のシンボル。その素晴らしさを故郷の岡崎から発信しようと、今構想を練っている。

 −不寛容で暴力的な世界になりつつありますが、平和を築くためにどうすれば良いのでしょうか。

 「相手の立場に立つ」というごく単純なことだと思う。殴られたら嫌、差別されたら嫌という当たり前の気持ちを持てば、暴力に対しておかしいと声をあげられるはず。便利な世の中で助け合わなくても生きられるようになった分、価値観の違う人との接触を避ける人が増え、他者への興味が弱まっているように感じる。学校でも「ルールさえ守れば怒られない」という教育をすれば、ルールからはみ出すものへの想像力が欠け、不寛容になっていく。

 講演などで子どもたちに戦場での経験を話すととても反応が良く、大人が少しきっかけをつくれば、他者の痛みを自分のこととして考える力は十分に育つと感じている。異なる世界への探求心を持ち、多様な他者を知ることの面白さを若い人たちに伝えながら、平和を願う思いを次の世代につないでいきたい。

 <あさい・くにおみ> 1947年、愛知県岡崎市生まれ。71年からフリーでヨルダンやシリアのパレスチナ難民キャンプなどを取材。毎日新聞ロンドン支局で助手を務めた後、73〜76年AP通信で勤務。その後、フリーやTBS契約特派員としてレバノン内戦や天安門事件、湾岸戦争、旧ユーゴスラビア内戦などを取材。TBS「報道特集」「筑紫哲也NEWS23」などで報道した。著書に「パレスチナは戦争館」(センチュリー・プレス)。77年から埼玉県を拠点に英会話教室を主宰。95年に災害支援ボランティア団体「アクトナウ」を設立し2011年まで活動。家族は妻と4歳の息子。17年4月から岡崎市内で国際交流や平和活動の拠点「グローバル・スタディーズ・カフェ」を運営する。

◆あなたに伝えたい

 その居心地の良さが、他人の不幸の上に成り立っていないか、常に考えなければいけない。

◆インタビューを終えて

 浅井さんの著書には、戦場で目の前で血を流す人を思わず助け、写真を撮れなかった場面が何度か出てくる。

 結果的にスクープを逃したこともあるが、浅井さんは「後悔は一切ない」と言い切る。原点は、幼いころの記憶。女手一つで、ただでさえ生活に苦しいのに、母は困っている人を居候させたり、通りがかりの物乞いの人におにぎりを持たせたりしていた。「今でも困っている人を見て見ぬふりができない」

 助けの手を差し伸べ、裏切られることもある。「でもそこを責めていたら楽しい人間関係がつくれない」。人間味にあふれるからこそ、人を人でなくす戦争を憎むのだと感じた。

 (森田真奈子)

 

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