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あの人に迫る

アントニオ・マルティーニョ・バティスタ 考古学者

◆時間のない時代 壮大な岩の芸術

写真・鈴木久美子

写真

 先史時代、約二万数千〜一万年前の人たちが岩に刻んだ線刻画が、ポルトガル北東部のコア渓谷に大量に残されている。どんな時代だったのだろう。壮大なロックアートを長年調査し、一帯のコア考古学公園のディレクターを五月まで務めた考古学者、アントニオ・マルティーニョ・バティスタさん(67)に聞いた。

 −線刻画は五千もあるそうですね。

 いえ、もっとあります。すべて野外にあり、(同時代の壁画が残るフランスの)ラスコーのような洞窟ではありません。最初は絵もあったのでしょうが、浸食され残らなかった。線刻画は堅くて崩れない片岩に刻まれていたので、今まで残ってきました。花こう岩だったら粉々になっていたでしょう。

 −どのような特徴が。

 全体的に美的なセンスがすばらしい。渓谷での調査は何キロも広範囲にわたり、街から離れ、気候も厳しいので少し大変なのですが、調査するたびにいつも何か発見があり、常に質が高くて古いものに出合えた。二万五千年前のものだと分かったときには、そんな困難も吹き飛び、人生が楽しくなりました。

 −線刻画を解読するために実際になぞって描いたんですね。

 ええ、彼らがどう描いたのかを知るのに役に立ちました。

 分かったことは、描いている動物は四種類だけ。野生の雄牛、馬、ヤギ、鹿。人の姿はほとんど描かれていない。当時はタブーだったのでしょう。どの動物を組み合わせているか、どの岩に描いているか、そうした研究もしました。結論としては、彼らは何か特別な考えがあって作品を作った。けれど、文字のない時代でしたから、それを書き残してはいない。カトリックには聖書があるから十字架の背景が分かるが、先史時代にはない。すべてが分かるということがない。謎です。考古学者によっていろいろな意見があります。でも証明は難しい。

 −なぜ描いたと考えられますか。

 モニュメントのような場所であり、コミュニケーションでもある。先史時代の世界に秩序を与える宗教的な、聖なる場所と認められていたでしょう。

 −どの絵が好きですか。

 全体的にすばらしいが、中でも際立っているのが一頭の雄ヤギの線刻画です。二万年前の作品で、頭が二つ、前向きと後ろ向きに描かれている。脚は前に進んでいるが、後方にいる雌ヤギのことを見てもいる。(物語の)ワンシーンで、動きが表現され、アニメーションのようです。先史時代にこうした感覚があったんですね。

 もう一つ、二頭の馬が頭をからめあっている。雄と雌。愛のシーンです。これもおもしろい。傑作です。

 −先史時代の人にはすごく創造性があったのですね。今の人と同じですか。

 同じです。でも、ピカソがかつてラスコーを訪ねたとき、驚いて言いました。全部発見されていた、と。今自分たちは何を発見しているのか、やっていることは先史時代と同じじゃないか、その後は衰退しているだけだ、と。

 私たちが今持っているような科学技術はなかったのに、同じすばらしい作品を作っていた。二十世紀初めのアーティストは先史時代のアートから、よくインスピレーションを受けていました。

 コアの線刻画も、一本の線で切り込んで、きれいなものを作った。私たちはよく直したりするでしょう、それがない。よく見ると、あの時代のアーティストは本当にデザインの達人だったと思う。

 −先史時代を「失われた楽園」と呼びましたね。

 人間の社会と自然の世界にバランスがあった。それは今なくしてしまっています。現代の社会で、私たちはいつもストレスを抱えて、走って走って走り続けている。

 あの時代は時間が存在していなかった。みなゆっくりとしていた。テクノロジーの発展もすごくゆっくりと行われていた。時間は産業社会の発明です。

 −人がもっと自由でもあったでしょうか。

 いえ、そうは思いません。生きる上で限界がありましたから。栄養や医療…人生も短かった。当時の寿命は三十〜三十五歳でしょう。人も動物も自由にはいつも限りがあります。

 −線刻画を解読するということは、大地の記憶を読み解くようなものではないでしょうか。

 一番古い記憶の解読です。人間と自然にすごく調和がありました。

 −現代は科学技術の進歩があまりにも速くて、問題が残っています。人間は、そのスピードを緩めることはできますか。

 いいえ、産業社会ですから。逆に、進んでいくでしょう。それが資本主義、消費社会です。どの国でも今や変わりません。もっともっと、毎年上がらないと、何パーセントアップしないといけない…と。その論理は進むこと、発展することです。そのために意気消沈した人間をつくっている社会です。

 −緩められないとしても、何かできませんか。

 ヨーロッパも日本もアフリカも、あまりにもスピードの速い生活をしているので、人間が機械みたいになっていますね。ロボットに支配されてはいけない。大学でも、テクノロジーのコースは増えているでしょう。仕事ができるから、と。でも、哲学や文学のコースがもっと増えた方がいい。お金にはならないかもしれないが、人生に充足感、満足感を与えてくれる。

 過去の本物を深く知ることが、現在と将来をよく分かるのに役に立つ。考古学も、よく分からない過去のことを研究するので、いろいろなストーリーを考えて、科学的に見極める。人間とはどういうものか、今の人間はどうか、将来どうなるのかということもよく分かる。

 −ご自身は大学時代に考古学に興味を持った。

 一九七〇年代はリスボン大で歴史を学びました。あんまり興味があったので、フランスやスペインでも勉強しました。ロックアートは学生時代にテージョ渓谷で研究し、卒業後に考古学者としてペネダジェレス国立公園で働きました。コアの線刻画が発見されて、九四年に政府の依頼を受けて仕事を始め、以来コアで約二十年働き、今年退職しました。今も会議やシンポジウムに出るなどコアの大使のようです。

 −コアを去って、懐かしくはないですか。

 コアのプロジェクトは私の人生でしたし、すごく大切な場所で、おもしろかった。世界遺産にもすぐに認められた。この遺産を守るために、政府は初めて、コアで進めていたダム建設を中止した。すべて素晴らしい経験でした。

 でも、特に懐かしいということはないです。今を生きていますからね。懐かしいといえば、先史時代です。時間が存在していなかった、あの時代です。

 <アントニオ・マルティーニョ・バティスタ> 1950年、ポルトガルのアレンテージョ地方出身。94年からコア渓谷の研究に携わる。今年5月までコア渓谷考古学公園とコア博物館のディレクター。ロックアート国立センターのディレクターも務め、ミーニョ大で考古学も教えた。コア渓谷の線刻画は92年、水力発電用ダムの建設中に考古学者ネルソン・レバンダさんが発見。報道されると地元の高校生や海外の考古学者らがダムに水没させまいと、「線刻画は泳げない」と訴えて運動。線刻画の価値を認めないダム推進側の考古学者らと論争になったが、政府は建設中止を判断。98年、世界遺産に登録。野外にある先史時代のロックアートでは世界最大級。

◆あなたに伝えたい

 みなゆっくりとしていた。テクノロジーの発展もすごくゆっくりと行われていた。時間は産業社会の発明です。

◆インタビューを終えて

 二〇〇六年、ポルトガルでコア渓谷への道を尋ねたら、地元の女性は快く案内してくれながら「電気も大事なんだけどね」と言った。電気を海外から輸入する国の人の複雑な心境を垣間見た気がしたが、消費電力量は比較的多くはなく、この十数年、国は再生エネルギーの自給へとかじを切っている。経済危機で欧州委員会などの監視下に置かれもしたが、近年、歴史遺産を基に観光が好調だ。あの女性も自信を持っているかもしれない。

 コア渓谷の線刻画を見るには少人数のエコツアーに限られ、ガイドさんの説明を聞いてのんびり回る。時の経過に堪える価値って何だろう。

 (鈴木久美子)

 

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