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あの人に迫る

佐伯康人 農福連携自然栽培パーティ理事長

写真・吉野茂之

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◆土の癒やす力でハンディ越える

 農業を通して、障害者が働く場を創出する「農福連携」の活動が、全国で活発になっている。農薬や化学肥料を使わない自然栽培で、取り組みを広げているのが、一般社団法人農福連携自然栽培パーティ全国協議会理事長の佐伯康人さん(50)だ。自身も障害のある三人の子どもを持つ父として、普及のために全国を飛び回っている。

 −自身も障害のある三つ子がいます。

 二〇〇〇年六月十八日のことでした。妊娠七カ月半の時に、妻のおなかが急に張り始めました。救急搬送の途中に酸欠状態になって、三人とも、脳性まひの一種である脳室周囲白質軟化症で生まれました。次男に至っては、医者から「生きないかもしれないから、そういう準備をしておいて」とも言われました。それがハンディキャップと関わる人生のスタートです。

 子どもが生まれたらあんなことやこんなことをしようという夢が一瞬で壊れた。ですが、すぐに「この子たちが生き生きと生きていける世の中にすればいいんだ」という思いが、不思議と湧いてきました。

 −農業を始めたのは、障害者就労の現場に疑問を抱いたからだそうですね。

 子どもが成長するにつれて、将来について考えるようになりました。ハンディのある人が働く場所を見たら、クッキーを作っていたり、地元のメーカーが社会貢献といって与えてくれる仕事をやっていたり。でも、働いている人に給料を聞いたら三千円と言われ、一日かと思ったら一カ月と分かって、少なさにがくぜんとしてしまいました。自分が子どもを授かった時に思った「この子たちが生き生きできるような世の中にしていく」という思いが強くなりました。

 いろんなハンディがあるのに、仕事の種類は少ない。もっと多くの仕事がつくれるんじゃないかと思い、同じ思いを持つ仲間たちを集めて、ハンディがある人たちの持っている力を発揮できる場所を考えました。

 そのなかで、思いついたのが農業。経験はありませんでしたが、農業って「百姓」と言うくらいたくさんの仕事がある。一つ一つの仕事で、本人の力を発揮できればと思った。そこから初めて農業を始めました。

 −その中でなぜ自然栽培にこだわったのですか。

 地域の方が小さな畑を貸してくれて、初めは化学肥料を使ってキャベツの栽培を始めました。初めてのことだったので、自然と触れ合うことがハンディのある人の精神面にもいいなと思いました。

 ですが、青虫の被害を受けて農薬をまくと気持ち悪くなってしまった。もっと違う方法がないのかなと思うようになり、肥料も農薬も使わない自然栽培を本で知りました。ただ、やってみたもののうまくいかない。試行錯誤している時、出合ったのが世界で初めて自然栽培によるリンゴ栽培に成功した青森県の木村秋則さんの本でした。

 本の中で、田んぼは簡単だと書いてあった。大豆を肥料の代わりに植えれば収量も増えるというのを知って、一石二鳥だと思って、お米からやってみました。やってみると、クモやカエルなどがいる自分の田んぼと、農薬を使って虫がいない周りの田んぼとの生態系の違いに気付きました。多様な生き物がいる田んぼを見ていると、自分の子どもと家族を支えてくれた地域の人たちに重なって見え、自分に向いている農法だなと感じました。

 娘が小学生の時にみかんジュースを飲んだら湿疹が出て、病院で果物アレルギーと言われ、果物が一切食べられなくなりました。自然栽培をやって数年たったころ、中学生になった娘に、自然栽培で育てたミカンのジュースを二日で一リットル飲ませてみた。湿疹は出ませんでした。果物アレルギーではなく、果物の木が吸った化学肥料などでアレルギー反応を起こしたんだって、確信を持ちました。

 −一五年四月に自然栽培パーティを立ち上げ、法人化へと展開しました。

 地元の愛媛県で農福連携を五年くらいやっていた時に、親交があった木村さんから「佐伯さん、私の歩けないところを回ってもらえないか」と言われました。同時に、自分が自然栽培をしている就労継続支援B型事業所に、全国から関係者が視察に来るようになり、「自分のところにも教えてくれないか」といった声もありました。そうして、手弁当で全国を回っているうちに、取り組みに参加した仲間たちが仲良くなっていき、グループをつくろうという話になりました。農家はつらいけどすごく楽しいよね、パーティのようだねって。それが「自然栽培パーティ」という名前の由来です。

 初めは全国五カ所でやり始めた。取り組みが認められて、一四年にヤマト福祉財団の小倉昌男賞を受賞した際、「全国の自分と同じ思いを持っている仲間の元に出向いて教えたい」と、スピーチしました。思いを理解してもらい、財団が交通費、旅費をバックアップしてくれています。

 −発足から二年半で、参加団体は九十カ所を超えています。

 農業は、働き方に幸せを感じず、つらい、低収入だという印象があります。ですが、かつては地域で「働けない」とされた人たちが楽しそうにやっている姿を見て、「自分たちもやりたい」と思うからではないでしょうか。いままでは働けないとされた人たちが、自然栽培で耕作放棄地を減らし、地域の問題を解決するようになっている。福祉の在り方が変わり、実績も出てきて、注目されるようになっています。

 −活動を広げるために全国を飛び回っていますね。

 僕が子どもができた時に抱いた「この子らが生き生きできる世の中をつくればいいんだ」という思いを持った人たちが全国にいる。みんなが力を合わせればいい社会になると思って、指導に回っています。松山市の自宅には、月に五日くらいしか帰りません。愛媛県に戻って、五時間後には東京に向かわなければならないときもありますね。

 −農場には笑顔が広がっているのが印象的です。

 肥料も除草剤も使わない土に触れることで精神が癒やされているんだと思います。沖縄県では、統合失調症の人が、自然栽培に取り組んだことで被害妄想がなくなったというケースもありました。うつが治るといった健康状態をよくするという研究結果もあって、実際にそれを感じています。日光に当たったり、汗をかいたりすることで、すごくいい効果が出ている。体も心も改善されていくんじゃないでしょうか。

 −取り組みの輪はまだまだ広がりそうですね。

 これまでは、自然栽培という一次産業が広がってきましたが、加工や流通など、自然栽培パーティによる六次産業化に取り組みたいと思っています。

 企業が参加し始めているほか、学校や病院から入りたいという声も出ている。間口を広げて、福祉施設に限らず、あらゆる人が参画できるようなパーティにしたい。取り組みは、第二期に入っています。

 ハンディのある人たちが、地域の中で「働けない人たち」から「なくてはならない人たち」になり、ハンディのない人たちとお互いに支え合いながら、楽しさを分かち合って暮らせる世の中にしたいです。

 <さえき・やすと> 1967年、北九州市生まれ。高校時代からバンド活動を始め、92年にボーカリストとしてプロデビュー。東京で活動していたが、97年に活動に区切りを付け、製造業を営む父がいる松山市に移った。2000年6月に、三つ子が障害児で誕生。特に次男は自力で呼吸することができなかった。長男宇宙(こすも)、長女素晴(すばる)、次男主人公(ひーろー)と名付け、数日後に市役所に出生届を出した直後に、次男は自力呼吸を始め、「奇跡が起きたと思った」と振り返る。03年に居宅介護施設「パーソナルアシスタント青空」を開設し、08年から自然栽培事業を推進。16年4月に一般社団法人「農福連携自然栽培パーティ全国協議会」を立ち上げ、理事長を務める。

◆あなたに伝えたい

 「働けない人たち」から「なくてはならない人たち」になり、ハンディのない人たちとお互いに支え合いながら、楽しさを分かち合って暮らせる世の中にしたい。

◆インタビューを終えて

 インタビュー中も、自然栽培の畑を一緒に見て回る時も、佐伯さんは常に明るい。だが、作物を見る目は真剣。「人が手を加えなくても、ちゃんと育つんだよね」。畑にいる間、自然栽培への熱い思いを何度も口にしていた。取り組みに参加する障害者支援施設の畑には、植物も、虫も、人間もいる。自然栽培の農場は、佐伯さんが目指している多様性を認め合う社会の縮図にも見える。

 「働けない人たち」から「なくてはならない人たち」へ。取り組みがさらに広がれば、社会にとって一石二鳥以上の効果が生まれるはずだ。

 (松村真一郎)

 

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