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あの人に迫る

中村紀洋 元プロ野球選手・指導者

写真・斉藤直純

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◆純粋な目の球児 成長する姿快い

 近鉄、中日など日米六球団を選手として渡り歩いた中村紀洋さん(44)。所属する球団の合併、ポスティングシステムでの大リーグ挑戦、日本復帰、自由契約などを経験し、激動の野球人生を送ってきた。現在は「生涯現役」を掲げ、高校野球のコーチや野球教室での指導など、現場の野球人を貫いている。

 −生涯現役をモットーにしている。

 今から現役のプロ野球選手に戻りたいということではないです。打席に立てば打てるかもしれないけれど、もう走れない。走ったら脚が肉離れを起こしちゃう。僕にとっての生涯現役は、新しく何かにチャレンジし続けること。数年前にアマチュア向けの野球教室を始め、この春から高校野球のコーチになり、最近はプロゴルファーの試験も受けた。指導者として、人間として、また全く別なことだったらまだまだ動ける。

 −日米六球団を渡り歩く波乱の野球人生でした。

 よく「中村紀洋というブランドを近鉄で終わらせない」と言ったことになってるんですが、僕自身、たぶんそんなことは言ってないと思う。当時は言ってないことでも何でもいろいろおもしろおかしく書き立てられた。たとえば、金髪にしていたのも、いかにもやんちゃをしているように言われたけれど、あれは二〇〇〇年と〇四年のオリンピックで金メダルを取るという験担ぎでやっていた。ニュアンスをくみ取ろうとしたのかもしれないけれど、結局それが事実と懸け離れた僕のイメージにつながってしまいました。

 でも、それをことさら否定することもなかった。否定することで何か事態が好転するわけでもない。僕は世間に対して言い訳するような人間ではなく、野武士のようなプロ野球選手になりたかった。今のプロ野球選手はお上品な選手ばっかりでしょう。成績が良くても個性がない。

 昔ながらの野球人の手本はやっぱり仰木さん(仰木彬元近鉄、オリックス監督)だと思う。僕が若手で一軍に上がったばかりのとき、深酒をして宿舎の門限を破ってしまった。こっそり帰ったら仰木さんとロビーでばったり会ってしまった。「終わった」と思ったら仰木さんは軽く「おう」と声を掛けるだけ。結局、仰木さんは不摂生をしても翌日結果を出せばいいという姿勢でした。これぞ昔ながらの仕事人なんだと思いました。

 −球団合併という球史に残る経験も。

 球団合併が報道された後、選手たちが集められて球団のフロント幹部から合併について説明がありました。そのとき、幹部から「野球は道楽」と言われた。選手たちはグラウンドで必死に野球をやって戦っているのに。本当にショックだった。この発言を聞いて、「終わったな。合併球団ではプレーできないな」と思いました。もちろん、経営不振だった近鉄バファローズを救ってくれたオリックスには感謝しています。でも、もう自分の中で、合併球団でプレーするという選択肢はなくなった。それじゃあ野球の勉強をしたいと思ってメジャーに挑戦しました。

 実はメジャー挑戦を後押ししてくれたのも仰木さん。特に仰木さんは米国での入団テストを、日程や場所を教えてもいないのに見に来てくれた。立派な球場ではなくて、町中の草野球をやってるような球場ですよ。あんなに情に厚くて野球に熱い人はいなかった。

 −米国ではマイナー契約。どのような生活をしていたのですか。

 どうも監督との相性が悪かったみたいで、なかなかメジャーには上がれませんでした。でもマイナーリーグでの生活は本当に新鮮で楽しく、意義があったと思います。マイナーでは食事は出ません。日本は二軍でも食事が出ますが、向こうではメジャーに上がれなければ毎食ポテトチップス。たまに自分でハンバーガーを焼いて食べることができました。だから彼らはハングリーさが違う。そんな環境でも彼らは百六十キロの球を投げ込んでくる。

 マイナーで過ごしていたある日、当時オリックスバファローズの監督だった仰木さんから連絡がありました。そこで「オリックスを助けてくれ」と声を掛けられました。散々お世話になった仰木さんにそこまで言われたから〇五年のオフに契約を破棄してでも日本に戻りました。ただ、仰木さんはその年末に亡くなり、一緒にプレーすることはできませんでした。

 −オリックスに所属した〇六年は、けがなどであまり活躍できず、オフに自由契約となった。

 契約の関係もあってどうしても言えないこともありますが、あのときはフロントとの契約交渉で本当につらい思いをしました。契約がまとまらず自由契約になって、声を掛けてくれたのが落合さん(落合博満元中日監督)でした。

 落合さんは、僕が近鉄にいた〇〇年のキャンプから目をかけてくれていた。当時スポーツ紙の解説者をしていた落合さんがキャンプに来て指導してくれた。手取り足取りアドバイスをくれるわけではない。ただ一言「遅い」と言われた。最初は何のことかわからずにスイングを速くしようとしてみたり体の動きを工夫したりした。結局、始動を早くしろということだと気付いたらその年に本塁打王などのタイトルを取ることができました。

 中日に入団するとき落合さんからは「普通の形では取れない」と言われました。支配下選手登録ではなく育成契約。でも、とにかく「選手としてプレーしたい」という気持ちが強く、中日にお世話になることにした。オープン戦を経て支配下契約され、日本シリーズではMVPを取れた。その後、移籍しましたが二千安打も達成できた。本当に落合さんは僕の野球人生で大きな存在でした。

 −高校生への指導で経験を生かせていますか。

 よく高校野球だとバットに当てることや、バントを重視し、一点ずつこつこつ取るように指導されています。ただ、やはり野球は点をたくさん取らないと勝てない。僕は選手たちに「フライを打て」「強く大きく振れ」と指導します。もちろん雑にプレーしろというわけではない。思い切って振る、全身を使うという二点をたたき込みたい。

 −高校野球指導のきっかけは。

 ある日、浜松開誠館高校野球部の佐野心監督から「よかったら教えに来てあげて」と頼まれました。そのときは契約だとか仕事だとかではなく、一度だけお試しということで見に行きました。当時、何を言ったのかははっきり覚えていませんが、ちょっとしたアドバイスで選手たちのバッティングががらっと変わった。そして笑顔になった。これで選手たちの心をわしづかみにしてしまったようで、すぐに佐野監督が学校の理事長に掛け合って契約ということになりました。その後は月に数日、教えに来ています。

 −プロ野球での指導者を、という気持ちは。

 プロの指導も、声が掛かれば考えたいと思いますが、今は高校野球だけでいい。高校球児たちの純粋な目が見ていて本当に気持ちいい。そしてぐんぐん成長します。プロはやはりある程度完成されている。指導者という点では高校生を指導するのが一番楽しいと思います。

◆あなたに伝えたい

 野球は点をたくさん取らないと勝てない。僕は選手たちに「フライを打て」「強く大きく振れ」と指導します。

 <なかむら・のりひろ> 1973年、大阪市東淀川区生まれ。右投げ右打ち。大阪・渋谷高2年時に全国高校野球選手権大会に出場。91年のドラフトで近鉄バファローズに4位指名され入団。4年目に定位置を獲得。2000年に初タイトルの本塁打王、打点王。01年も打点王を獲得し、リーグ優勝に貢献。04年オフにポスティングシステムで米大リーグのドジャースに移籍。1年で日本へ復帰し、オリックス、中日、東北楽天、横浜DeNAと渡り歩いた。中日では07年に日本シリーズMVP。日米通算成績は打率2割6分6厘、2106安打、404本塁打。15年に兵庫県西宮市で少年野球教室「エヌズメソッド」を開校。17年4月、浜松開誠館高野球部コーチに就任した。

◆インタビューを終えて

 幼いころ、近鉄バファローズの大ファンだった。中でも中村紀洋さんが豪快なフルスイングから放つ本塁打に魅了された。当時から、新聞やテレビで報道される発言も「本塁打の打ち損ないが安打」などと豪快だった。ただ、考えてみれば野球の目的は、たくさん点を取り、勝つこと。至極当然のことを正直に話していたにすぎない。だが、発言が正直すぎるあまり、周囲が誤解し、おもしろおかしく伝えられ、世間の中村紀洋像ができてしまった。実際には、大好きな野球をいつまでも第一線でプレーしたいという気持ちが人一倍強いだけ。その気持ちが言葉の端々から伝わってきた。

 (瀬田貴嗣)

 

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