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あの人に迫る

李チョル雨 在日2世の音楽プロデューサー

写真・五十嵐文人

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◆民族の心一つに

 在日コリアン二世として朝鮮の民族的な音楽に携わって60年になる音楽プロデューサー李チョル雨(リチョルウ)さん(79)=東京都調布市。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の在日本朝鮮文学芸術家同盟で20年にわたり音楽部長を務めた。民謡「アリラン」の普及と研究、レコードの発売中止騒ぎとなった「イムジン河」問題の現場にもいた。60年にわたる民族的な音楽活動の一端を語る。

 −戦前生まれの在日二世としては戦後の混乱期は大変だったでしょうね。

 幼少のころ住んでいた大阪市淀川区の三国(みくに)は、伊丹飛行場が近いせいもあってよく空襲がありましたし、いつもひもじい思いをしていました。7歳のとき終戦を迎えましたが、父李鐘三(ジョンサム)は全財産を処分し、故郷の大邱(テグ)に帰るために下関に行きました。ところが帰国船が来ない。100万人近い朝鮮人が集まったといいますからね。3年待つ間に父が大邱に密航、仕事はなく教育環境もない様子だし、資金も尽きて帰国を断念。同郷の人を頼って兵庫県伊丹市に住むことになったのです。

 −音楽との出合いは?

 長兄大雨(テウ)が音楽家を目指していたこともあり、近隣では珍しくピアノがあってアコーディオンも中学生のころから我流で弾いていました。音楽に触れたのは、高校時代に親友に誘われてコーラス部に入り合唱の良さを体験したことくらい。1956年、高校の卒業式翌日に上京、その後受験に失敗して「どうやって食べていこうか」と考えた末、楽器を覚えようと思ったのです。当時アコーディオン奏者の需要が多く、横浜にできた楽器店の2階に住み込んで働きながら、アコーディオンを猛練習しました。兄貴に紹介された原孝太郎と東京六重奏団のアコーディオン奏者鎌野茂先生や日本一といわれた岡田博先生らの特訓のおかげで、翌年には東京コンチネンタル室内楽団に入れました。

 −その後、帰国の話があったそうですね。

 59年に父から「来年4月に家族全員で帰国する」と呼び戻されました。一家は父母と私を含めた6人きょうだいの8人。結局、両親と三男、四男、次女の5人だけ帰りました。一番上の姉阪生(パンセン)は教師で民族教育に当たっており、長兄は日本名・木下清でシャンソン歌手として「銀巴里」や「ラセーヌ」などで歌っていて契約が残っていたのです。祖国に帰り作曲を学びたいと私は東京の朝鮮総連本部に帰国申請に行きました。すると「アコーディオンの弾ける人材を青年運動で求めている」と言われ、父に相談、残ることになって…。

 −朝鮮総連で音楽を担当することになったのは?

 楽団で働きながら在日本朝鮮青年同盟に入って青年運動に関わるようになり、翌年には在日朝鮮中央芸術団に入団しました。そのころ作曲の勉強もしていて、総連関係の大会や各種の学習会で青年たちに歌やアコーディオンを教えていました。実は運動に入ったころは朝鮮語ができず、会議や学習など全て朝鮮語で行うので全く理解できず苦労しました。「彼は1週間持たないのではないか」と言った人もいたようです。青年たちに話をしたり、歌を教えなければならないので朝鮮語を覚えるのに必死でしたよ(笑)。でも「言葉こそ民族である」という教えは、在日一世の背中を見ているようで代を継いで伝えていきたいですね。 

 −アリランとの関わりを教えてください。

 作曲の勉強をしていたころ、「キーンアリラン」というスローテンポのアリランを聴いて「これこそ求めていた音楽だ」とショックを受けました。民謡はその民族を代表すると思います。アリランは典型的な民族歌でしょう。いつごろ生まれたか分かりませんが、百余種の旋律、3000を超える歌詞があります。「アリラン」は全土に普及していて体系的で生命力があり、一つの歌を同じ民族が多種多様に歌っているのは世界的にも珍しい現象で、98年にはユネスコで、口伝文化を保存し後世に伝える賞として「アリラン賞」と命名されたくらいです。

 −「イムジン河」は何が問題だったのですか。

 これは作詞が朴世永(パクセヨン)、作曲は高宗煥(コウジョンファン)で57年に北側で作られた歌です。60年ごろから、在日社会だけで歌われていたこの歌をフォーク・クルセダーズがカバーして東芝側が出すことになりました。「朝鮮民謡」と表記していたので、総連側は国名と作詞、作曲者を明記するよう求め、再度話し合うことにしましたが、一方的に東芝側が下りてしまい発売中止としたのです。「フォークル」の楽譜にミスが3カ所あったのですが、それを指摘することもできませんでした。

 −北朝鮮でも歌われていたのですか。

 朝鮮戦争後の復興に邁進(まいしん)していた「千里馬(チョンリマ)」運動の時期で人々を鼓舞する2拍子、4拍子の歌が好まれ、大衆受けしませんでした。でも、すごい生命力のある歌で日本で火が付いたのです。いろいろと紆余(うよ)曲折はありましたが、わが民族の分断の現状を知らしめてくれたことはありがたいことです。2001年に高さんと会ったとき、なぜ詞が2番までしかないのか聞いたら「実は3番はある」というので翌年もらう約束をしていましたが、亡くなってしまって…残念です。南北離散家族の悲しさを歌った内容だったようです。

 −心に残るプロデュースを一つ挙げると。

 78年5月にピョンヤン学生少年芸術団が初来日したことでしょうか。団は選抜された才能豊かな子供ばかりですが、特に歌のチョン・ヘヨンのアンコール曲「みかんの花咲く丘」の日本語の発音も完璧で、3番の「やさしい母さん思われる」ではうっすら涙さえ浮かべて歌っていたのが印象的でした。アコーディオンのカン・グムチョルの「統一列車は走る変奏曲」も大変な人気で行く先々で握手攻め。手を強く握ってけがをするといけないので禁止令を出したほどです。私は団が来日する1年ほど前に訪朝し、録音・取材し来日記念レコードやパンフレットなどを作ってコンサートを盛り上げることができました。

 −悔しかったことは?

 2002年の演歌歌手キム・ヨンジャ公演で訪朝した時、旧知の元総連文化局長で北の文化大臣になっていた張徹(チャンチョル)先生と金正日(キムジョンイル)総書記のお墨付きで、キム・ヨンジャをはじめ韓国と日本の音楽家による日朝芸術交流を市場原理(一般公演)でやろうということになりました。とりあえず「イムジン河」の高さんを日本に招きコンサートを開くことや帰国した芸術家とその子弟で構成された芸術団の初訪日公演などを北に提案、了承されました。日本に帰り、準備のため事務所も人も探し、夢も膨らんでいました。ところが9月になって日本人拉致の事実が明らかになり全て中止。青天の霹靂(へきれき)でした。

 −総連への思いは?

 今も機関紙「朝鮮新報」を読んでいますが、卒業して30年近くになりますので、現在のことはよくわかりません。私の専任30年間の認識は何事も「同胞による同胞のための相互扶助の自主団体」で、その根幹は民族教育だったと思います。祖国の平和的統一を志向する団体として、そこで働く専任は同胞から大変信頼されていました。私自身は、そういう環境で多くの人に出会えたし、組織で朝鮮語をマスターできたことは人生最大の収穫だったと思っています。

◆あなたに伝えたい

 「言葉こそ民族である」という教えは、在日一世の背中を見ているようで代を継いで伝えていきたいですね。

 <リ・チョルウ> 1938年、大阪生まれ。61年に在日朝鮮中央芸術団に入団。68年、30歳で文芸同音楽部長に抜てきされ88年まで務める。78〜88年、朝鮮レコード社副社長を兼務、85年、平壌(ピョンヤン)尹伊桑(ユン・イサン)音楽研究所副所長に就任。88年に半島の音楽研究や紹介のためコリアアーツセンターを設立、プロデューサーとして東京と大阪、ニューヨークで「ハンギョレコンサート」を開く。2001年に国立韓国芸術総合学校と韓国アリラン全国連合会の招待を受けソウルで講演する。現在、コリアアーツセンターを主宰する一方、在日文芸倶楽部「アリラン友の会」代表を務める。

◆インタビューを終えて

 北朝鮮のミサイル、核開発とそれに対する日本政府の反応の仰々しさにうんざりさせられる。李さんは金正恩委員長の新年の辞をこう分析する。「未熟だったと反省し、『この世の幸せ歌う』という国民的歌謡の歌詞のように、みんなが助け合う大家族を目標とすると述べてます。体制の保証、つまり米国との平和協定を結びたいのです」。祖父の金日成(キム・イルソン)氏が半島の非核化を訴えていたことから、ミサイルと核開発は国民の目を外に向けさせるためだとみる向きもある。それにしても核などやめ、国民総所得が韓国の45分の1まで落ちたという経済を回復させる方が優先課題だろうといつも思う。

 (小寺勝美)

 

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