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あの人に迫る

黒尾和久 国立ハンセン病資料館学芸部長

写真・淡路久喜

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◆差別に抵抗して、生き抜いた証し

 国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)は、ハンセン病療養所に強制隔離され差別や偏見に苦しめられ、それでも人間らしく生きようと闘い続けたハンセン病の元患者らが自分たちでつくり上げた。「国立」も闘いの末に勝ち取ったもの。同館の黒尾和久学芸部長(56)は「歴史を逆なでし、国に認めさせた、希有(けう)な博物館」と、その重みを強調する。

 ―資料館にあるジオラマ展示に圧倒されます。

 資料館に隣接する国立ハンセン病療養所多磨全生(ぜんしょう)園にあった「雑居部屋」を復元しています。十二畳半の広さで男性の入所者八人が暮らしました。将棋を指したり包帯を巻き直したり、思い思いに過ごしていますね。奥に、窓の外をぼうっと眺めている人がいるでしょう。実はあの人が展示の主役なんです。別れてきた子どもや女房を思い出しているのか、それとも父親や母親か。それとも何も思っていないのか。ゆったりしていいなと思うかもしれないけど、これが一生続くことを想像してみてほしい。成田稔館長は「あのおじさんに共感できれば、ほかのおじさんの思いもわかる」と話します。

 ―入所者がつくり上げた資料館です。

 国立とあるのでよく誤解されますが、一九六九年ごろ入所者自治会が、自分たちが築き上げた文化が散逸しないようにと、入所者が書いた文芸作品を図書館(ハンセン氏病文庫)に集め始めました。生活資料も加え、展示スペースもつくり、九三年に開館した高松宮記念ハンセン病資料館につながりました。当時学芸員はおらず、入所者が展示プランを考え、館の開け閉めや解説もやっていました。

 患者を隔離する根拠となった「らい予防法」が九六年に廃止され、二〇〇一年に隔離政策などは誤りだったと国が認めたのをきっかけに、〇七年、国立館としてリニューアルしました。

 博物館は近代の帝国主義や植民地主義の産物です。大英博物館のように、植民地で集めたり奪ったりしてきたお宝を権力者が国民に「すごいだろう」と見せる場所。でもここは、社会の一番端っこに追いやられた人が自分たちでつくり、それを国に認めさせて国立の博物館にしてしまった。人類にとって希有な博物館で、自慢すべきことです。

 日本民族に心地よい「正史」を展示する博物館はたくさんあるけれど、ここは、俺たちはそれと違うよ、どっこい生きてきたよ、と示す場所。哲学者ベンヤミンの言う、歴史を逆なでする博物館なんです。

 入所者の歌人・明石海人(かいじん)に「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処(どこ)にも光はない」との言葉がある。療養所に連れてこられた人たちは、社会が光を当てなきゃ何ともならないかわいそうな人だと思われがちだけれど、この人たちは自分たちで立ち上がって、外部にプロテストし、人間として生き抜いた。資料館はその証しです。

 ―本業は発掘です。

 専門は縄文時代の実証的集落研究。住宅地図を作るときはある時間軸で切りますよね。でも、考古学でムラの復元図を作るときは千年の累積が一枚の絵になったりする。目指したのは、千年のうちの五百二十年目の秋のムラの景観がどうだったのかを実証しましょう、というような学問です。

 地道に積み上げていけばある程度、事実に近づくと信じてやってきたわけです。ところが、発掘をやっている連中から、自分で「資料」を埋めて遺跡をつくっちゃうやつがでてきた。しかも考古学者は二十年間もそれに気づかなかった。二〇〇〇年に発覚した「旧石器遺跡捏造(ねつぞう)事件」です。

 問題は、発覚後、捏造した学者を応援していた学者がクモの子を散らすように逃げたこと。「俺は被害者」と思ってるわけ。本当ならどこで間違ったのか反省し、次の世代に問題が起きたときに立ち返る教訓を得なきゃいけないのに。

 どうして考古学はこういう事態を招くんだろうと、考古学という学問の歩みを調べ始めた。行き着いたのは植民地主義とか帝国主義。戦争が拡大すると学者もくっついていって調査する。それが戦前の日本の考古学の実態でした。天皇制の問題があって国内で古墳は自由に掘れないから、植民地でやっていた。

 ところが戦争に負けるとフィールドを失った人たちが帰ってきて、「新生日本考古学の誕生」とばかりに登呂遺跡(静岡市)に集まって掘り始めた。侵略戦争への加担や植民地支配の加害責任に全く無自覚、無反省でたくましく前進できてしまうのが、捏造事件と同じだ、と思いました。

 事件の最終報告でも、モノの検証はやってもヒトの検証はしないまま。それじゃ学史に刻印されず、同じことを繰り返す。悶々(もんもん)としていたところに、成田館長との出会いがあったりして、〇九年に資料館に赴任しました。

 ハンセン病問題にも同じ構造があります。立法の無責任、行政の無責任は国家賠償訴訟で断罪され、ようやく司法も最近になって謝罪した。

 医師、マスコミも加害の側です。そして私たち市民も、同じ加害側の淵に立っている。およばずながら、遅まきながら、私も加害の淵に立っていることを重々自覚しながら、その名誉回復運動の端っこに連なりたいと思っているわけです。

 ―映画監督の宮崎駿さんがよく資料館に来るとか。

 「もののけ姫」にハンセン病患者が描かれていることは有名ですが、「千と千尋の神隠し」も全生園へのオマージュ(敬意)だと確信しています。主人公は名前を取られて、違う名前を与えられて生きる。けなげに働く。まさに療養所です。千尋は名前を取り戻して外に出られて良かったね、じゃ駄目なんです。かえる顔のおじさんやおかめ顔のお姉さんは、名前を取り戻せずあそこにいるままでいいのか。そう見ると奥深いです。

 ―大病を患いました。

 今年二月に右足の親指にメラノーマ(皮膚がん)が見つかり、幸い転移もなく指を切断しただけで済みました。復帰したら、入所者のみなさんがにやにやして近づいてくるのです。「おれ足ねーから、指一本くらい大丈夫だよ」とか「指なくなったんだって? 俺まだあるよ」と妙な励まし方をする。うれしかったのは「少し俺たちに近くなったな」と言われたこと。強さ、優しさを感じました。

 死ぬかもしれないと思ったとき、ぼくは病気になったからってマンション管理組合に「出て行け」と言われたり、女房子どもが石をぶつけられたりすると考えもしなかった、と気づきました。ハンセン病が「らい」といわれ不治の病だった時代、死の恐怖に加えて、社会に抹殺されるという二重の死の恐怖があった。その意味がずしりときました。

 資料館に「取り戻せていないもの」と題する空っぽのガラスケース展示があります。人生の選択肢、入所前の生活、社会との共生、家族との絆…。これはまだ展示できない、ということです。どうしたら展示できるか。あるいはケース自体をなくせるのか。考えるのは当事者じゃなくて、私たち。一緒に考えませんか。

◆あなたに伝えたい

 一番端っこに追いやられた人が自分たちでつくり、それを国に認めさせて国立の博物館にしてしまった。

 <くろお・かずひさ> 1961年東京都大田区生まれ。東京学芸大で教育学、博物館学を学び、東洋大大学院文学研究科修士課程で考古学を修める。東京都の八王子市宇津木台遺跡群や調布市原山遺跡の発掘調査・報告を手掛ける。旧石器遺跡捏造事件をきっかけに日本考古学の歴史と日本人考古学者の植民地主義、戦争などとの関わり、歴史認識について研究する。

 95年ごろ初めて高松宮記念ハンセン病資料館を訪問、2009年4月に国立ハンセン病資料館に学芸課長として赴任、14年学芸部長。共著書に「考古学の地平I 縄文社会を集落から読み解く」(16年、六一書房)、「考古学という現代史−戦後考古学のエポック」(07年、雄山閣)など。

◆インタビューを終えて

 ブリキの義足や療養所内だけで通用する貨幣、監禁室の重い扉。資料の数々は入所者が全国の療養所を回り、自分たちで集めてきた。各地の博物館を見学して展示方法も考えた。駅前に立って募金集めもした。それを思うだけで胸が熱くなる。博物館史から見てもこの資料館が飛び抜けた存在だと黒尾さんに教わり、いっそう資料館に引かれるようになった。

 当事者が減ってゆく中、思いの詰まったこの場所をどう後世に引き継いでいくか、託された学芸員の責任は重い。「一生付き合う覚悟はできている」と黒尾さん。私も一生付き合おうと思っている。あなたも。

 (石原真樹)

 

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