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あの人に迫る

田平美津夫 子ども映画祭のディレクター

写真・由木直子

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◆開催し続ければ 不戦の願い届く 

 日本最大の子ども映画祭「キネコ国際映画祭」が今秋、二十五周年を迎える。仕掛け人のフェスティバル・ディレクター、田平美津夫さん(52)は民間人で、開催赤字を本業の会社経営による収益で穴埋めしながら続けている。その理由は「子ども映画祭を続けていれば戦争は起こらない」との願いにあるという。

 ―キネコ国際映画祭はどんな映画祭ですか。

 子ども映画祭は欧州が盛んです。ドイツやチェコ、イタリアの子ども映画祭に毎年出向いて、これはと思う作品を選んだり、公募では世界から約三百作品の応募があります。それらの中から厳選したアニメや実写の長編、短編三十数作品を上映しますが、最大のウリは声優のみなさんが映像に合わせて生で吹き替えをする「ライブ・シネマ」です。字幕が読めない小さな子どもたちも大丈夫、大いに盛り上がりますよ。

 コンペティション部門では子どもたちが審査してグランプリを決めます。声優体験や映画製作体験などワークショップも盛りだくさんです。今年の映画祭は十一月二日から六日まで、東京都世田谷区の109シネマズ二子玉川や二子玉川ライズ、兵庫島公園など東急二子玉川駅周辺で開催します。参加対象は一歳から十歳ですが、上映作品は大人が見ても楽しめる作品ばかりです。

 ―始めたきっかけは何ですか。

 岐阜第一高校に通っていたころ、テレビで映画が全盛で月曜や金曜ロードショー、夕方や深夜の映画番組を見まくりました。そのころ見た映画が今の自分を百パーセントつくっている気がします。ビジネスを始めてからも“映画体験”で救われたことがたくさんあります。高校生のころ、あるカナダ人映画監督と日本人のプロデューサー夫妻に強い影響を受けました。英語もできないのに来日するたびにホテルへ押しかけて映画の話をうかがいました。当時の私の夢は映画監督になることでした。

 高校を中退し、映画の仕事に携わりたくて十八歳で米国へ渡りました。サンフランシスコですし屋や土産物屋のバイトをしながらハリウッドで映画関係の求職活動をしましたが、英語もできないし学歴もないし、どうしてもダメでした。二十一歳の時に日本の新聞の現地版で、アラスカ州とハワイ州を除く四十八州をバイクで回りながらその土地で活躍する日本人を紹介する記事の企画をやらせてもらいました。ただし「スポンサーも自分で取る」との条件付きでした。これがうまくいって、その時に懸命に磨いたイベント企画力、スポンサー獲得力、メディア宣伝力などがいまのビジネスや映画祭の原動力になっているようです。

 帰国して、二十五歳で内装工事の会社を立ち上げました。米国での修業がいろいろ役立ち、仕事が軌道に乗ると“映画熱”がさらに上昇。監督夫妻の助言や人脈紹介もあり、一九九二年に映画関係者らと子ども映画祭を始めました。東京都渋谷区にあった国立の児童館「こどもの城」(二〇一五年に閉館)の一行事、「キンダー(子ども)・フィルム・フェスティバル」が始まりでした。

 ―順調でしたか。

 それが、一緒に始めた人たちは「子ども映画祭はもうからない」と言って一人、二人とやめ、五年目から私一人になりました。ただ、もうけはありませんが、こどもの城の環境があったため、子どもたちが集まり、予算も若干付いていたし、企業のスポンサー探しに精を出して十五年間続けました。しかし、事業仕分けで追い出されることになり、このままではいけない、五十年、百年と続けられる子ども映画祭にしたいと強く思いました。

 そこで方針を二つ決めました。世界の映画祭のように、一つは自治体と組むこと、二つ目は映画祭のシンボルを作ること。まず自治体ですが、〇八年から映画の街を標榜(ひょうぼう)する調布市に場所を移しました。地元に根付いて映画祭らしくなってきたころ、市の担当者が代わってやりにくくなり一五年に渋谷へ。これがターニングポイントになりました。そこで東急グループの方々が映画祭を見て感動し、グループを挙げて「ぜひ二子玉川でやろう」と支援に本腰を入れてくれました。

 シンボルはいろいろ相談した結果、「それいけ!アンパンマン」「きかんしゃトーマス」「ゲゲゲの鬼太郎」の主役声優の戸田恵子さんにジェネラル・ディレクターをお願いしました。戸田さんに加えてタレントの中山秀征さん、俳優の高橋克典さんも手弁当でディレクターやサポーターとして応援してくれています。

 ―映画祭と本業の兼ね合いはいかがですか。

 私の性格上、協賛金が五百万円集まると一千万円のことを、一千万円集まると一千五百万円のことをやりたくなります。いま本業は、内装業から発展した建築関係の人材派遣業など三つの事業をやっています。社員は約三十人ですが、映画祭が近づくと「有給を一日増やすから」とか言って手伝ってもらっているうちに、今では映画祭のプロみたいに育った社員もいます。昨年の映画祭は約五千五百万円かかり、相当な赤字をうちで穴埋めしました。やりすぎて本業がおろそかになったので、今年は社員には本業に専念してもらいます。映画祭のために集めたスタッフ七十人から百人で運営しますが、全体では数百人がかかわっています。

 ―二十五年間続けた成果はいかがですか。

 最近は各国在日大使館にも認知されて、自国の監督やアーティストを送り込んでくれます。彼らに日本作品の審査をやってもらうことで、翌年は彼らの国の映画祭でキネコの日本作品を紹介してもらえます。三十カ国以上の映画祭とネットワークを築き上げました。昔からラッキーな人間で、もうダメという時に必ず誰かすごい人にサポートしてもらっています。みなさんの支援をいただくためにも変なことはできません。子ども映画祭なのでモラルやマナーはしっかりしないといけません。

 ―監督になる夢は。

 主催者が映画を作ってはいけません。意外と商売の方が自分に向いていると分かりました。あははは…。

 ―今後は。

 今年は二十五周年を記念して、ベルリン国際映画祭の子ども映画部門の協力で始めた時の初心に返ってドイツに焦点を当てます。また内戦が続くシリアのアニメ映画監督を招待します。私は、子ども映画祭を続けていけば戦争は起きないと願っています。キネコは中国や韓国の映画祭とも連携を深めています。また今年は二千人規模の「野外上映会」に新たに挑戦します。さらに、昨年から東京国際映画祭で「ユース部門」をキネコが企画しています。十代の子どもたちを対象に映画を見て討論する形式です。住民ボランティアも増えています。新たな試みをしながら映画製作者、自治体、スポンサー、地域住民と一緒に安定感のある映画祭にしたいですね。

◆あなたに伝えたい

 映画製作者、自治体、スポンサー、地域住民と一緒に安定感のある映画祭にしたいですね。

 <たひら・みつお> 1965年、北海道上ノ国町生まれ。小学3年時に愛知県一宮市へ。岐阜第一高校中退。1983年から87年まで米国で暮らす。帰国後、広告会社で勤務した後、内装工事会社を経営。92年から子ども映画祭「キンダー・フィルム・フェスティバル」にアシスタント・プロデューサーとして参加。映画祭は紆余(うよ)曲折を経て、2015年に「キネコ国際映画祭」に改称。キネコの名称は「キネマ(映画)」と、幸運を呼ぶ「黒い招き猫」をかけて命名したという。現在は同映画祭のフェスティバル・ディレクター。人材派遣業、まきストーブ販売業、飲食業のカイクラフト社長。

◆インタビューを終えて

 学生のころ柱で画面が半分しか見えない地下の名画座に通った。熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」をバーで自主上映する活動にも参加した。

 安楽死や同性愛、差別など家庭や学校ではなかなか話しにくいテーマも、映画なら素直に見て考えることができる。映画の力は無限だ。

 田平さんもきっと胸が苦しくなるような映画をたくさん鑑賞したのだろう。

 子どもも大人も楽しめる映画祭の環境づくりは、国を超えた平和の実現につながるのではないか−。田平さんの熱い思いが直球で伝わってくる。それがスポンサーや支援者、仲間を増やしているとよく分かった。

 (立尾良二)

 

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