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あの人に迫る

倉田浩伸 カンボジアのコショウ製造会社代表

写真・長塚律

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◆「世界一」広めて、農業国の復活を

 一九七〇年代から内戦が続いたカンボジアは、九一年、パリで和平協定を締結して新たな国づくりへと動きだした。当時、大学生で非政府組織(NGO)の派遣隊員としてカンボジアを訪れた倉田浩伸さん(47)。荒廃したカンボジアを見て、農業の復活にこそ国再興の活路があると確信し、世界有数のコショウ産地への道を切り開いた。

 ―学生時代に初めてカンボジアを訪れます。

 大学二年のとき、語学研修先の米国で同室の米国人に言われた一言がきっかけです。九一年に湾岸戦争が勃発し、「日本人はお金を出すだけで、人的貢献をしていない」と。とにかく悔しかった。帰国後、NGOの派遣隊員に応募。四年の夏、念願かなってカンボジアに派遣されました。

 ―当時のカンボジアは。

 大量虐殺を繰り返していたポル・ポト派が七九年に政権を追放された後も、十二年間に及ぶ内戦が続いていました。九一年十月にパリで和平協定を締結。私の派遣は翌年八月。「ここから国づくりが始まる」というタイミングです。九三年の制憲議会選挙に向け、難民を帰還させる国連のプロジェクトが始まっていました。私は首都プノンペン郊外のレセプションセンターで、支援物資の業務に携わりました。センターには週一回、帰還民がやってきて一時滞在します。国連から米と土地と、少しのお金が支給され、早くて一週間で出ていくのです。

 新しい定住地に向かうわけですが、誰もが希望よりも不安の方が大きい様子でした。「内戦で産業もずたずたなのに、定住地に行っても生きていけるのだろうか」と口々に話していた。この光景こそ、今カンボジアで農業をやっている大きなきっかけです。

 ―なぜカンボジアだったのですか。

 小学五年でいじめに遭い、中学三年の秋に兄をバイク事故で亡くしました。こうした経験が人生に大きく影響しました。人が人を排除しようとする感覚や、生きるとはどういうことかを深く考えるようになりました。同時に七〇年代のカンボジアの内戦と、ポル・ポト政権の虐殺を描いた映画「キリング・フィールド」を見て衝撃を受けました。なぜ争うのか、その当時、まったく理解できなかった。カンボジアにのめり込んだのはそれからです。

 ―大学在学中にNGO職員になってカンボジアで学校建設に携わった後、NGOを退職されています。

 学校をつくっても、来ない子は来ないんです。両親に所得がないからです。だったら所得を向上させるための農業開発が必要だと思いました。

 カンボジアはかつて農業国だったと聞いていましたが、産業として成り立っているようには見えなかった。崩れた農業を立て直したい。農家が自立できればと思ったのです。そこで農業調査事務所を設立しました。これがコショウ製造会社「クラタペッパー」の前身になります。

 ―なぜ調査事務所だったのでしょうか。

 カンボジアの資料という資料はポル・ポト派が焼き払っていたため、当時はどんな作物が作れるのか、手がかりがありませんでした。ドリアンやココナツの輸出などいろいろ試しましたが、どれもうまくいきませんでした。

 右往左往していたとき、カンボジアが最も栄えていたといわれる六〇〜六四年の五年間、大叔父が日本政府の経済活動に協力していたことを知ったのです。帰国した際にカンボジアの農業統計資料と貿易統計資料を受け取りました。データの最後のページにコショウが生産されていた記録を見つけたのです。年間一万五千トンで、当時、一つの産業として確立していた証拠です。百科事典を調べると、カンボジアのコショウについて「品質は世界一といえる」と表記されていた。

 カンボジアに戻ってすぐにコショウ農家を探しましたが、内戦で木が枯れて荒廃しているところばかりでした。その中で「三本の苗から在来種を復活させた」というおじいさんに出会いました。枯れずに残っていたということは、コショウの生育に適した地域だと思い、契約しました。

 ―コショウ栽培と販売は順調だったのでしょうか。

 最初は日本に輸出しても全く売れませんでしたね。スーパーに営業に行っても、カンボジアと聞くと「貧しい国」というマイナスのイメージばかりで、こちらの提示した額では取引してもらえませんでした。輸送コストもかさんで社員の給料が払えなくなり、社員が一人、また一人と離れていきました。最後には私と農園だけ残りました。二〇〇〇年、三十一歳のときです。借金も残っていました。

 ―撤退しようとは思わなかったのですか。

 続けるかどうか、とても悩みました。しかし、友人に「おまえみたいなカンボジアばかからカンボジアを引いたら、ただのばかしか残らない」と励まされて。だったら徹底的にカンボジアばかになろうと決意しました。

 農園を維持したまま会社を休業し、カンボジア国内で地方を回り、友人や知人の家で居候生活を送りました。旅行会社のツアーアテンドや通訳など仕事をもらって、借金を返すために必死でした。

 ―農業を何とかしたいという思いは消えなかった。

 「世界一の品質」といわれたコショウを、もう一度世界に広めたいという思いはずっと忘れませんでした。〇一年に秋篠宮ご夫妻がカンボジアを公式訪問されたとき、運良くコショウを購入していただけたのです。カンボジア国内でお土産として売ればいいと気づかされました。

 ちょうどその頃出会った妻の助言でパッケージのデザインを変え、プノンペンに専門店を開きました。工夫を重ねるうち、客が来て、リピーターが増え、カンボジアで経済をつくりたいという思いがだんだん実現していきました。

 ―コショウ産業を先駆的に育ててきました。

 起業した九四年当時、カンボジアのコショウ生産量は年間二十二トンで、国内消費もまかなえない量です。コショウを栽培から販売まで企業として専門に手がけていたのも、私だけでした。一〇年ごろから、世界中から参入してくる企業が増え、今では年間一万二千トンで、世界第七〜八位の生産量です。

 ―今後の展開をどのように考えているのでしょう。

 日本での販路拡大です。今年、日本支店を株式会社化しました。カンボジアの会社はいつか現地の人に譲ります。われわれ日本人は日本で稼いで、カンボジアの生産者の人たちにきちんとコショウを作ってもらえる仕組みをつくりたいです。

 ミッシングミドルといって、ちょうど私たちの世代が虐殺によってカンボジアにはほとんどいません。現地の人たちには、この国は君たちがつくらないといけないと話しています。参入企業は後を絶ちませんが、世界が認め始めたというのはうれしいことです。

 直径五ミリしかないあのコショウひと粒ひと粒に込めている願いは、平和ですから。パイオニアとしてやってきた以上は頑張らないといけないと思っています。

 <くらた・ひろのぶ> 1969年生まれ。カンボジアのコショウ製造販売「クラタペッパー株式会社」代表。津市出身。94年、亜細亜大経済学部卒。92年8月からJIRAC(日本国際救援行動委員会=現JHP)に参加してカンボジアを訪問。在学中にカンボジアで前身となる農業調査事務所を設立。97年にコショウ農園を創業。2005年、首都プノンペンにコショウ専門店を開店。13年、日本支店を設立、17年に株式会社化。コッコン州に約6ヘクタールの自社農園を持ち、年間平均4トンを収穫。日本国内では、卸業とインターネット販売が中心。カンボジアオーガニック農業協会長。カンボジア日本経営者同友会理事。妻と2人の子どもを日本に残し、一年の半分以上をプノンペンで過ごす。

◆あなたに伝えたい

 友人に「おまえみたいなカンボジアばかからカンボジアを引いたら、ただのばかしか残らない」と励まされて。だったら徹底的にカンボジアばかになろうと決意しました。

◆インタビューを終えて

 ポル・ポト政権時代に収容所となったプノンペン市内の高校は現在、博物館となって負の歴史を語り継いでいる。そこから一・五キロほど北東に倉田さんのお店がある。

 昨秋、店を訪れた。フランス植民地時代のコロニアルスタイルの建物の扉を開けると、こぢんまりとした店内。店の奥では、ガラス張りの個室の中、数人の従業員が黒い粒を手際良く選別していた。

 この、働く日常を取り戻すのに、どれだけの労苦があったのだろうか。「カンボジアの産業を何とか取り戻したい」という倉田さんは、あのスパイシーなコショウとは正反対なほど、優しい心の持ち主だった。

 (秋田佐和子)

 

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