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あの人に迫る

尤維潔 天安門事件の遺族グループ代表

写真・平岩勇司

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◆真相明らかにし弾圧ない社会に

 中国で民主化運動が武力弾圧された一九八九年六月四日の天安門事件は、中国では「六四」といわれ、公の場で語ることはタブーだ。だが、夫の楊明湖さん=当時(42)=を殺された尤維潔(ゆういけつ)さん(63)は遺族グループ代表として、事件の真相解明や謝罪を求める活動を続ける。二十八年の月日が流れた今も政府は黙殺を続けるが、「真相はいずれ必ず、明らかになる」と信じる。

 −二〇一四年から、遺族グループ「天安門の母」の代表となった。

 「天安門の母」という名前のように、メンバーの多くは子どもを殺された母親です。私は夫を殺されましたが、事件当時五歳だった息子の育児もあり、他のメンバーが率先する活動についていくだけでした。しかし母親たちが七十〜八十代と高齢となり、私に依頼が来て、ちゅうちょなく引き受けました。

 −八九年の民主化運動は、改革派リーダーの胡耀邦・元共産党総書記が四月十五日に急死したのがきっかけだった。

 学生たちが胡氏を追悼する運動を始め、それが言論の自由や腐敗撲滅を求める運動に発展し、天安門広場に多くの学生が集まりました。当初は公務員やマスコミも、学生たちの行動を支持していたんです。私の夫も貿易部門の政府機関に勤務していましたが、運動に理解を示していました。五月十九日に戒厳令が敷かれ、北京の緊張は高まり始めましたが、夫は「人民共和国の軍隊が人民を撃つわけがない」と信じていました。

 そして六月四日午前一時ごろ、夫が「銃声が聞こえる」と起き上がりました。私たちが住んでいたのは北京市内の天安門に近い場所で、広場に向かう戒厳部隊とそれを阻止しようとした民衆が最も激しく衝突した地域だったんです。

 家から出ると、近所の知人が走ってきて「路上は血だらけだ。広場の学生はどうなっているか分からない!」と叫んでいる。私たちは学生が心配になりましたが、夫は「君は息子を見ていて。私が行く」と自転車に乗って外に出ました。

天安門事件で殺害された夫の楊明湖さん

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 戻らない夫を心配していた午前六時ごろ、知人が「近くの病院に七人が運ばれ、五人は既に死んだ。あなたの主人はまだ生きている」と教えてくれた。病院に向かう途中、路上では路面電車が燃えており、「まるで戦場みたい」と感じた。病院も血だらけの市民でいっぱいでした。

 再会した夫は、骨盤やぼうこうを撃たれていました。私に「自宅近くの公安省の建物から兵士が飛び出してきて、銃を乱射した」と説明しました。そして「私はもうだめだ。申し訳ない。息子を頼む」と言い残し、二日後に旅立ちました。人はこんなに突然死んでしまうのかと、ぼうぜんとしました。

 −政府は民主化運動を「反革命暴乱」と決めつけ、武力弾圧は「暴徒を鎮圧した」と正当化した。一方、「事件の巻き添えで犠牲になった市民には補償をする」と表明した。

 街頭の監視カメラで、夫は運動に参加していなかったことが分かり、一年後になって「自然死」と認定され、職場から見舞金が出ることになりました。

 私は考えました。社会の格差や腐敗という問題は現実に存在し、それを是正しようとした学生の運動は愛国行動だった。なのに、「人民の子弟」といわれた人民解放軍が人民を殺害した。そして夫は、理由もなく命を奪われた。これが「自然死」なわけがない。これは残忍な犯罪です。私は夫の職場に行き、見舞金の受け取りを拒否しました。「妻として、一人の公民として、真相を追及する」と言って。

 その後、夫の遺骨を納めた納骨堂で、六月四日に死亡した日付の入った遺骨を見つけたので、「同じ運命に遭った遺族と知り合いたい」と思い、電話番号を書いたメモを添えたんです。それから、「天安門の母」リーダーの丁子霖さん、張先玲さんらと知り合ったのです。

 −天安門事件後、民主化運動や武力弾圧について触れるのは特にタブーだった。その中で危険を顧みず、活動を始めた。

 九五年から全国人民代表大会(全人代=国会)に、事件の真相解明、責任者の追及、犠牲者への謝罪と賠償を求める公開書簡を出しました。当時はまだ、「暴徒」を捜して追及する恐怖の時代でしたが、勇気をもって声を上げる人が必要でした。

 政府は「事件の犠牲者はごく少数」と主張し、死者の名前や年齢、職業すら発表しなかったので、多くの遺族を自力で捜し出しました。少ない情報をもとに遺族を捜し、亡くなった状況を聞き取り、誰も「暴徒」でないことを明らかにしていきました。二〇一三年からは新たにチームを立ち上げ、北京以外の地域でも新たな犠牲者を調べ、報告書を発表しています。

 全人代には毎年、公開書簡を送り続けましたが、「牛に向かって琴を弾く」(反応がないたとえ)状態です。私たちには警官の監視が付き、毎年の六月四日の墓参りはパトカーに乗せられ、警官同伴でしか許されません。追悼集会を開こうとして軟禁され、地方の都市に連れて行かれたこともありました。

 でも私は警官に「夫が六四で殺された事実を言っているだけ。何も悪いことはしていない。私たちを弾圧する方法では何も解決できない」と言っています。警官も上の命令でやっているだけ。私たちに罪はないと分かっているのでしょう。手荒なまねはしません。

 中国のすべての指導者に事件を見直す責任がある。ずっとそれを期待してきましたが、誰もやってこなかった。現在の習近平国家主席の体制は厳しい言論統制を進めています。天安門事件の真相を追及する人々への弾圧を緩めることもない。

 −遺族は高齢化し、次々と亡くなっている。政府に事件の再評価をする動きはなく、市民の間でも風化が進んでいる。

 百七十六人いたメンバーのうち、既に四十八人が亡くなりました。みんな「真相が明らかになる日を、私の代わりに見届けてね」と無念の気持ちを言い残して。私たちは自分たちだけを代表していない。中国人の心の中には「六四コンプレックス」があります。誰も事件を口にしなくても、忘れてはいません。私たちが活動をやめることはありません。

 息子は三十歳を超えました。父親がなぜ亡くなったのか、私がどんな活動をしているか分かっています。ただ、息子には「自分の考えで生きていきなさい」と話し、活動に加わるよう強要はしていません。私は、恨みの種をまくつもりはない。息子に歴史を背負わせる必要はない。

 今は事件を見直す機運はありませんが、いずれ必ず真相は明らかになります。私たちの活動を通じて、少しでも社会の進歩をうながしたい。私の子孫の世代が残虐な手段で弾圧されることが、二度とないように。

◆あなたに伝えたい

 多くの遺族を自力で捜し出しました。少ない情報をもとに遺族を捜し、亡くなった状況を聞き取り、誰も「暴徒」でないことを明らかにしていきました。

 <ゆう・いけつ> 1953年、中国江蘇省無錫生まれ。中学卒業時は毛沢東による政治運動「文化大革命」の時代で、都市住民を地方に移住させ過酷な労働をさせる「下放政策」により、最北端の黒竜江省の建設兵団で五年間働く。76年から北京の印刷工場に勤務するかたわら、財務や会計を独学し、会計士の資格を取得。89年の天安門事件で夫を失った後、複数の会社で財務・会計を担当し、一人息子を育ててきた。91年、天安門事件で17歳の息子を失った丁子霖・元中国人民大教授や、19歳の息子を亡くした張先玲さんらと知り合う。95年から活動を開始した遺族グループ「天安門の母」に参加する。2014年からグループのスポークスマン(代表)になる。

◆インタビューを終えて

 天安門事件の死亡者について中国政府は「三百十九人」と主張するが、実際は少なくとも千数百人以上といわれる。

 遺族の大半が悔しさをこらえて沈黙を保つ中、尤さんたちは危険を顧みずに真相解明を求め続けている。中国国内で二十年以上にわたり、事件の見直しを訴え続けているグループは唯一といっていい。

 中国政府は強権で事件を封印し続ければ風化していくと信じているようだが、歴史を消し去ることはできない。

 「恨みの種をまくつもりはない。子どもに歴史を背負わせない」という尤さんの言葉は、中国の指導者こそが耳を傾けるべきだろう。

 (平岩勇司)

 

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